名古屋をとりまく歴史街道
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2011年12月7日
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2011年12月7日
永正年間(1504年~1520年)頃、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主 の織田信定が築城したと伝えられる。 信定の子、織田信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、那古野城に 移り城代として置いた。 『尾州古城志』による...
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2011年12月7日
骨太で気性の激しい童子であったという正則。十二歳の頃、 親戚である秀吉を訪ね、当時秀吉が預かっていた加藤清正と切磋琢磨 しながら、秀吉の妻・ねねのもとで健やかに育ち、武士としての資質を 磨いていった。 秀吉の命運をかけた賎ヶ岳の合...
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2011年12月7日
597年、伊勢国甚目村の漁師龍麿という者が尾張国の入り江で投網をしていたとき、 金色の聖観音像を引き上げ、入り江のかたわらに草堂を建て観音像を安置し、 自らの姓氏をとり甚目寺(はだめでら)と名付けたのが寺の創建にまつわる伝承として...
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2011年12月7日
津島市に入るとすぐに神守の一里塚がある。佐屋街道には五女子、岩塚、千音寺、神守、埋田と5ヶ所の 一里塚があったが現存する唯一の一里塚。一里塚を過ぎ神守町下町を右手に曲がり神守宿へ入る。 神守宿は万場宿と佐屋宿との間が長かったた...
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2011年12月7日
佐屋街道は、宮宿と桑名宿を結ぶ東海道の脇往還として明治時代初頭まで 非常に賑わった。 岩塚、万場、神守、そして佐屋宿と四つの宿場を経て佐屋「三里の渡し」で 佐屋川を下り桑名宿へといたる。
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2011年12月7日
佐屋街道は東海道の脇往還として七里の渡しの欠航時や船酔いを嫌う旅人に利用され大いににぎわった。 宮宿から美濃路を北上し新尾頭まで来たところが起点。ここで美濃路と分岐し西へ進む。 起点から200m強まで進み堀川を渡る。堀川に架か...
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2011年12月7日
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2011年12月7日