常盤御前墓から関の藤川(藤古川)
今須峠を越えて、JR東海道線に沿って関ヶ原へ進むと常盤御前墓がある。 伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追ってきた常盤は、土賊に襲われて息を引取る。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられている。
壬申の乱(672年)の激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから名づけられた黒血川を渡り、しばらく進むと高札場跡の碑が立っている。そこから少し進み、若宮八幡神社の参道を登り、JR東海道線の踏み切りを越えたところに若宮八幡神社の境内が広がる。 その境内の東側の丘の上に石田三成の盟友で盲目の軍師大谷吉継が陣を構えた場所がある。吉継は小早川秀秋らの裏切りで敗退、山中で自刃し墓も建てられている。
国道21号線をわたり程なく行くと右手奥に大友皇子(弘文天皇)陵候補地が見える。 壬申の乱(672年)で敗れた自害された大友皇子の頭が葬られていると伝えられ、 三本松がそのしるしとなっている。
そこから500mほど進むと関の藤川にさしかかる。 この川は伊吹山麓に源を発し、関所のそばを流れているところから、関の藤川と呼ばれていた。 壬申の乱では、両軍がこの川はさんでの開戦。関ケ原の戦いでは、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、このあたりは軍事上重要な地点であった。 小道を南に下ったところにある若宮八幡宮は、戦いで敗れた、大友皇子(弘文天皇)が祭られている。
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不破の関から西首塚
関の藤川を渡ると不破の関跡まで坂が続く。戸佐々神社、不破関資料館を通り過ごし坂を登りきる手前右に不破関守屋敷跡の建物がある。東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、壬申の乱(672年)の後に設けられたといわれる。延暦八年(789年)に停廃されて関守が置かれた。
関跡を過ぎ、井上神社の参道まで来る。 井上神社は壬申の乱で勝利した大海人(天武天皇)を祭っている。さらに東海道を進むと、国道21号線に合流、200mほど行った左手に関ヶ原の戦いで戦死した霊を弔う西首塚がある。
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関ヶ原古戦場と本陣付近
関ヶ原宿は、四方を山に囲まれ、その中を東西に走る東海道沿いに町並みが続く。 この盆地で天下の覇権をかけた関ヶ原の戦いがおこなわれた。
午前8時頃、狼煙を合図に戦闘が開始され、午後2時過ぎには東軍の勝利が決定した。 戦死者は、東西の首塚に供養されている。関ヶ原歴史民俗資料館では、関ヶ原合戦図屏風をはじめ、合戦に関わる武具を展示している。
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垂井宿へ
関ヶ原宿に別れを告げ、東海道と合流している国道21号線を2.5kmほど進んだ右手に徳川家康が最初に陣を置いた、桃配山が国道沿いに見える。丘の上には、家康がテーブルと腰掛けに使用したと伝えられる2つの石が置かれている。
桃配山の手前で国道を左に入り、JR東海道線に沿って東海道を進むと道の両側に松並木が連なる。伊富岐神社一の鳥居前を過ぎ、垂井町へ入る。
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