加納宿へ
河渡の渡しで長良川を越え堤を登り、中山道へはいる。鏡島を1km程進んだ左手に 乙津寺(おっしんじ)の参道がみえる。 乙津寺は、千手観音像を彫刻して安置したときに始まる。その後、弘法大師が当地に滞在、 寺を乙津寺と名づけ、七堂伽藍塔などを造営した。今は「鏡島の弘法様」として慕われ、 参詣者も多い。寺の北西に当たるところに小紅の渡しがある。 長良川の川下にあった河渡の渡しが中山道の表街道、小紅の渡しが 裏街道として栄えた。現在も県営の渡しとして営業している。
乙津寺参道から700mほど南にある立政寺は、美濃など東海地方の中世浄土宗の一大中心地と して栄えた寺。明智光秀と細川藤孝の仲介により、織田信長が戦国最後の将軍となった 足利義昭を迎えた歴史上の重要な舞台としても知られている。
中山道に戻り加納宿へと向かう。2km余進んで一里塚あとを過ぎ、加納宿の西の入口でもある 西の番所跡へいたる。
より大きな地図で 加納宿と中山道 を表示
加納宿 西の番所~東の番所
加納宿は中山道53番目の宿場。 町並みは約2.3kmと細長く普通の宿の3倍ほどの 長さがあった。 途中、一宮を通って美濃路と結ぶ岐阜道と交差している交通の 要衝。 家数600~900軒、人口2000~3000人 、本陣1、脇本陣2、旅籠35、問屋場2の 規模をもっていた。 また加納城の城下町としても繁栄した。
西の番所跡の近く、本町の千手観音を見てまっすぐ伸びる中山道を進む。 番所から600mほど行った左手の加納宿脇本陣跡碑を過ぎ200mほどで加納天満宮の 参道前に来る。角にはもう一つの加納宿脇本陣跡の建物がある。 加納天満宮は、文安2年(1445)斎藤利永が沓井城を築城したさい、城の守護神として 勧請(かんじょう)されたと伝えられる。その後、徳川家康が加納城を築城したとき 城郭内に位置した天満宮を現在の場所に移し祀った。また、加納天満宮の山車は 市重要有形民俗文化財に指定されている。
中山道にもどり、西問屋場跡碑を過ぎると、加納本陣跡の前に来る。本陣職は松波家 が勤め、文久元年(1861)の皇女和宮の降嫁の際に宿泊され、その時に詠まれた
「遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり」
の歌碑が置かれている。 国道157号線を渡ってすぐ左手に加納宿当分本陣跡の碑が見える。 当分の間本陣として定めらていた臨時の本陣で、有力者の家を一時的に本陣とした。 当分本陣跡から少しいった右側にある二文字屋は、元和六年(1620)創業。 左甚五郎が宿泊した際に彫った欄間を所蔵する全国にその名を馳せる川魚料理・ 日本料理の老舗。
二文字屋から150mほどで、中山道は左に曲がる。加納城大手門が あったあたりだ。右に曲がって450m南に下ったところに加納城があった。 築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。今は面影は ないが、本丸、二之丸、三之丸、厩曲輪、南曲輪(大藪 曲輪)などを備えた、 関ヶ原戦後初の本格的な城郭であった。
大手門跡から中山道を7~80m程行った川べりに高札場跡の標識が立っている。 この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約33.5m、幅6.5m、横2.2mも あったという。川を越えしばらく行くと中山道・岐阜街道追分だ。 右に曲がると中山道。まっすぐ行くと岐阜街道、岐阜市の中心部を通り金華山、長良川 へと向かっている。江戸時代、長良川で取った鮎を「なれずし」に加工し、岐阜街道から 美濃路、東海道を経由して江戸幕府に献上したことから、岐阜街道は御鮨街道と呼ばれていた。
中山道・岐阜街道追分を右に曲がり、中山道へ入ると左手にあるのが岐阜問屋場跡。 加納新町の熊田家は、土岐・斎藤時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜に あったころには加納の問屋役をつとめていた。江戸時代に入ると、全国から 岐阜へ出入する商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、 「岐阜問屋」と呼ばれるようになった。岐阜問屋は岐阜の名産品であり、 尾張藩が将軍家へ献上する「鮎鮨」の継ぎ立てをしており、御用堤燈を許されていた。
問屋場前を300mほど進むと、中山道は左手に曲がる。その角に浄土真宗の善徳寺がある。 善徳寺の山門を行き、右手に折れた左側に加納宿の東の入口、東番所があった。
より大きな地図で 加納宿と中山道 を表示
大画面でご覧になりたい方はYouTube Network2010で
岐阜城と信長の居宅
加納宿を出て鵜沼宿へ
東番所から170m程進むと、「右岐阜、谷汲左西京」の文字が刻まれている谷汲山道・ 中山道追分の石碑が道端に置かれている。 ここを右に曲がり、川を渡って左にふたたび右に曲がった左手に中山道・岐阜街道追分碑が 建てられている。右に曲がる岐阜街道は美濃路へて名古屋城下につながっている。
そこから1km弱で、領下に到る。200mほど先にある延命地蔵堂の脇に 『伊勢名古屋ちかみち 笠松凡一里』と刻まれ道標が置かれている。 中山道と伊勢道の追分だ。そこから100m余り行った中山道の両側に細野の一里塚の 北塚と南塚が当時の面影をしのばせている。 そこからまっすぐ、途中に誓賢寺の山門を見て、切通へ向かう。
切通に入ると、左手に大山祇神の娘石長姫命を祀っている伊豆神社が見える。 健康長寿をつかさどる神で、全国主要神社でこの神を主祭神とする神社は皆無であるという。
切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞留水を境川に落していたことに よると言われている。文治年間(1185年)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられ、この地に 長森城を築いた。延元二年(1337年)美濃国守護二代土岐頼遠が土岐郡大富より長森に 居を移し、長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。 江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり、以後幕府領・大垣藩預り地と変わり、 享保三年(1802年)磐城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ、幕末まで この地を治めた。切通は古来東西交通の要路にあたり、江戸初期中山道が開通されるや、 手力雄神社前から淨慶寺付近までは立場として茶屋・菓子屋・履物屋等が 設けられ、旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。
切通陣屋跡、浄慶寺を過ぎると中山道は手力雄神社一の鳥居で左手に曲がっている。 その角道標の置いてある、手力雄神社の参道を進み450m程で手力雄神社本殿に着く。 天照大神がおかくれになっていた岩戸を外からこじあけた力持ちの神様として知られる 天手力雄命が祭神。4月の第2土曜日に神社境内で行われる奇祭・火祭は 広く知られている。
より大きな地図で 加納宿と中山道 を表示