美江寺宿
宿場の機関の一つである本陣は、宿場開設より三十二年後の寛文九年(1669)春、 時の領主加納藩の戸田丹波守光永によって建設され、問屋山本金兵衛が管理を兼ねた。 以後、山本家が世襲して宿駅制廃止まで継承。 一般旅人のための旅籠や茶屋は年代により増減があったが、 これは幕政改革の影響であろうと思われる。文久元年(1861年)10月26日の和宮親子内親王江戸下向の途次、 当宿御小憩と、慶応四年(1868年)2月20・21日、当宿を発信地とした、東征軍東山道鎮撫隊のことは、 当宿交通史の特記事項。 明治三年(1870年)閏10月、民部省布告による宿駅制廃止に伴い、宿場の歴史を閉じた。
呂久の渡し場跡~美江寺宿
平野井川を渡り、瑞穂市に入る。400m弱行った右手に呂久の渡しの跡に 昭和4年(1929)に造られた小簾紅園がある。入口に呂久の渡し跡の石柱と 皇女和宮御送跡碑が建てられている。揖斐川の川筋は、二度の大規模な 河川改修工事により東側に移されたが、それまではこの辺りが呂久の渡船場として 江戸初期には船頭屋敷が13あったという。 また、皇女和宮が江戸へ向かう途中に呂久の渡しの舟中で紅葉した楓を眺め
「落ち行く身と知りながら もみじ葉の人なつかしく こがれこそすれ」と
詠われた場所でもある。100m程先の左手にある呂久の渡し船年寄「馬淵家」の 住まいは、当時の面影を残している。門の横に明治天皇小休所の碑も立っている。
揖斐川を渡り、犀川を右手に見て川なりに進み、左に曲がる犀川を渡ると 美江寺千手観音像の前に来る。ここから80m弱で、美江寺宿の入口だ。
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美江寺宿
美江寺宿は、長さ東西4町28間(約486m)、人口582人、家数1136軒、本陣1、 脇本陣なし、旅籠11軒。明治24年(1891)の濃尾大地震で壊滅的な被害にあったという。
宿の入口を左に曲がり、200m程行った左手に瑞穂市立中(なか)小学校の前身、 開蒙学校跡碑がある。右手には、問屋山本金兵衛が管理を兼ねた美江寺本陣跡地が広がる。 皇女和宮も休息をとられたという。本陣跡の先を右手に入った所にある 瑞穂市立中(なか)小学校のあたりが、かっての美江寺城跡。 室町後期から戦国時代の、美濃国守護・土岐氏の家臣和田氏の居城であった。 天文11年(1542),土岐頼芸と共に斎藤道三と戦い敗北、城は焼失した。
ふたたび中山道に戻り、美江寺神社へ向かう。神社前の道の西南角にある邸宅は 旧庄屋・和田家、風格あるたたづまいを残している。 美江寺神社の境内にある、美江寺観音は斎藤道三によって千手観音が 岐阜に移されたため、廃寺になったという。また神社の前には高札場があった。
神社の前を右手に曲がり、250m程行った左手に美江寺一里塚跡がある。 ここで美江寺宿に別れを告げ、西に向かってほぼまっすぐ中山道は進む。
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本田から河渡宿へ
五六川を渡り、400mほど進むと、高札場跡の標識が立っている。本田の町の 入口付近にあたるところと思われる。街道沿いに本田代官所跡、本田の延命地蔵が並ぶ。本田代官所は、野田三郎左衛門が初代の代官、明和7年(1770)大垣藩預けに なるまで置かれた。また、このあたりに立場が置かれていたそうだ。 本田の延命地蔵は、高さ九十センチメートルの石仏座像。 江戸時代、この中山道を往来した旅人はここで一休みして、このお地蔵さまに 旅の安全を祈ったことであろう。
糸貫川を越えて河渡宿へと向かう。
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