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落合宿本陣
与坂立場跡から落合宿へ
子野の一里塚を過ぎ、中津川村と落合村の境界、三五沢川に架かる橋を渡る。この先の急峻な坂を上りきった開けたところに与坂立場跡碑が民家の前に立っている。この立場では団子が名物として人気をはくしていたと伝えられる。また、ここからは、木曽川越しに苗木城が一望できたと記されている。
ここから約600m、途中国道19号線の高架をくぐり、坂を上った見晴らしのいい場所に、木曽義仲の家臣で四天王のひとりといわれた落合五郎兼行が、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされる熊谷五郎城跡がある。落合五郎兼行は義仲に仕え落合に居城を構え、美濃口を固めたが、義仲と共に討ち死にした兄「兼平」の弔い合戦に臨み、戦死。地元では「おがらん様」と親しまれている。
坂を下り、ふたたび途中国道19号線の高架をくぐった所を左手に折れ、落合宿にはいる。
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与坂立場跡
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与坂立場跡
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熊谷五郎城跡説明
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熊谷五郎城跡
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熊谷五郎城跡
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熊谷五郎城跡
落合宿
落合宿は、西から行って美濃国の最後の宿場。ここを過ぎると信濃国にはいる。宿内は下町、中町、上町、横町と続き、人口 370人、家数 75軒、本陣 1軒、脇本陣 1軒、 旅籠 14軒、宿の長さは3町35間(約390m)のこじんまりした宿場。火縄の製造などで生計をたてていたらしい。中央に幅2尺ほどの用水があり、往来する牛馬の飲み水や生活、防火に使われた。
下町の善昌寺は、曹洞宗の寺院。慶長五年(1600)の創建で武士儀郡関村にある龍泰寺の末寺。山門にある老松は「門冠の松」とも「路上の松」とも呼ばれ根回り2m30cmの450年の樹齢を持つ。
その先左にある落合宿本陣は井口家が勤め美濃16宿に唯一残る本陣建築。皇女和宮や明治天皇もここで休憩された。建物の広さは約440㎡で中津川市の文化財に指定されている。本陣の表門は文化12年3月の大火の後に、定宿としていた加賀藩前田家から火事見舞いとして贈られた格式高い門である。
本陣近くには松尾芭蕉門下で美濃派の俳人嵩左坊の生家があった。 泉屋と名乗り代々造り酒屋を営んで、村の年寄役も務めていたという。落合宿本陣の東隣にある、卯建と格子窓の民家は、『夜明け前』の主人公 青山半蔵の内弟子林勝重の生家。本陣の中山道を挟んだ、斜め向かいには塚田家が勤める落合宿脇本陣があった。その東隣りの広場に展示されている落合宿助け合いの大釜は、「寒天」の原料天草を煮るときに使用されたもの、日本の食文化を支えて道具を後世に伝えるために置かれている。
街道から南へ入った所にある高福寺の境内には樹齢200年と伝えられる彼岸桜が3月下旬頃から淡いピンクの花を咲かせ、里人に温かな春の到来を告げる。
上町に入ると、枡形に左手に上町常夜灯が復元されている。落合宿には四基の常夜灯があり、一晩中灯りを絶やさず旅人の目印となっていた。枡形を左に曲がり県道7号線を渡ったところに落合宿高札場跡が立っている。その脇を下り、十曲峠(じっこくとうげ)へ向かう。
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十曲峠から新茶屋一里塚
落合川の架かる落合橋は木曽名所図会にも描かれた橋桁のない美しい橋であった。 しばしば大水で流されたと伝えられる。落合橋を渡ると十曲峠(じっこくとうげ)の 入口だ。
十曲峠をのぼり、医王寺の山門の前に出る。医王寺では刀傷によく効く名物の狐膏薬を売っていた。 医王寺にはその版木も残っているそうだ。境内の石仏群を見て、250mほど進むと、道が分かれ 落合の石畳西入口から石畳を上り、新茶屋へと向かう。
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*記述にかんしては、中津川市市教育委員会制作の案内板および 、中山道歴史資料館の取材を参考に記載しました。また、記述の訂正等に関しては、中山道歴史資料館およびの中津川市観光課のご協力を得て修整いたしました。
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