新茶屋跡から馬籠城跡
落合の石畳を上りきった所に一里塚跡、是より木曽路の碑、芭蕉句碑が並んでいる新茶屋である。
一里塚跡は、北塚は石碑のみ南塚は復元されて当時の様子をしのばせる。是より木曽路の碑は、隣の馬籠宿で生まれた明治の文豪島崎藤村の筆による美濃と木曽の国境の碑。現在の碑は藤村記念館の落成十周年を記念して、昭和32年(1957)に建立された。
芭蕉句碑は芭蕉の供養として、天保十三年(1842)に建てられた。「送られつ 送りつ果ては 木曾の穐(あき)」と刻まれている。新茶屋は、芭蕉句碑から落合寄りに100mほど下ったところにあったらしい。
ここから300mほど坂を上った左手、見晴らしいい場所に正岡子規の句碑が建てられている。「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」と刻まれた石碑が立つ。ここから望む夕日は絶景だ。
石碑から約1kmほど行った右手に諏訪神社の参道が見える。参道入口右手に島崎正樹翁記念碑が立つ。島崎正樹は、藤村の父で「夜明け前」の青山半蔵のモデルになった人。正樹は、中山道馬籠宿の本陣,庄屋,問屋を兼ねる名家に生まれた。平田篤胤の国学に傾倒し、明治時代に入ると木曾山林の解放運動に奔走するが、家産を傾け 失意のうちに発狂し悶死する。次男の広助(藤村の兄)の奔走により明治45年(1912)に建てられた。
その先に左手の丘は、馬篭城跡。室町時代からあり、戦国時代には武田氏が領し、その後木曽義昌が治めていた。小牧長久手の戦いでは、秀吉と家康の対峙の場となり、馬籠城は島崎重通(藤村の祖)が 警備した。家康の大軍の前に重通は馬籠城を捨てて脱出。馬籠城は戦火を逃れた。江戸時代になって尾張徳川家が支配することになったが、その後廃城の運命を辿った。馬篭城跡から、坂を下り400mほどで県道7号線を越え馬籠宿へ入る。
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馬籠宿
馬籠宿は、天保14年(1843)頃で宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で宿内人口は717人 、何度も大火にあい復興された。
宿に入ると坂が続く。車屋坂(水車坂)をのぼると枡形があり、水車の発電所の上のところに常夜灯が 置かれている。枡形を過ぎた右手に清水屋資料館がある。当主の原家は、屋号を清水屋といい、古くから村役をつとめた旧家。この清水屋には藤村の書簡、掛軸、写真などをはじめ、江戸時代に宿場として栄えた頃よりの文書、書画、九谷、伊万里、唐津などの陶磁器、輪島の漆器類をはじめ宿場「馬籠」の生活文化史ともいえる数々の遺品が2階の資料館に展示してある。
坂を100mほど上った左手は馬籠宿本陣跡。藤村は、島崎家の四男として生まれ、九歳で上京するまでここで育った。現在は記念館として公開されている。記念館では、「夜明け前」の原稿、手紙類、 藤村が執筆の資料とした大黒屋日記などが展示されている。記念館の裏手にでると、島崎家の菩提寺永昌寺の森が見渡せる。永昌寺には藤村の遺髪・遺爪とともに冬子夫人、夭逝した三人の娘たちが眠っている。
記念館の前には観光案内所があり、観光客の案内所、休憩所として重宝されている。
記念館の先、左手の大黒屋は酒屋を営んでいた家柄で、馬籠宿の問屋も勤めていた。『夜明け前』執筆の資料ともなった『大黒屋日記』は、この店の10代目が記したものだ。
その先に脇本陣が続く。脇本陣は代々蜂谷家が勤め「八幡屋」という屋号を掲げていた。明治28年(1895)の大火で殆どの建物が焼失。現在は、当時の脇本陣の上段の間を復元し馬籠脇本陣資料館として当時使用していた家財や什器を展示するとともに、江戸のころの木曽路の独特の文化や制度を紹介している。
脇本陣資料館から200mほど坂を上ると復元された高札場が右手前方に見えてくる。正徳年間(1711~16)に発布された御朱印、切支丹、薬品などに関する定書と、明和7年~寛政6年(1770~94)に発布された徒党禁止の定書が復元され、掲示されている。高札場の前を上った坂の右手に馬籠上陣場跡がある。小牧・長久手の戦いのとき、徳川勢の菅沼・保科・諏訪の 三武将が馬籠城を攻めるため、ここに陣を敷いたと伝えられる。ここから診る恵那山は絶景だ。
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馬籠上陣屋から妻籠峠
しばらく進むと中山道は県道7号線と合流、馬籠峠へ進む。 途中にある水車塚は、明治37年(1904)、山崩れで犠牲となった一家4人を悼んだ 鎮魂碑が建てられている。藤村の筆による「山家にありて水にうもれたる蜂谷の 家族四人之記念に島崎藤村しるす」の一文が刻まれている。 現在は、水車小屋が復元され休憩の場となっている。
水車小屋の横を流れる川を 渡り、県道7号線を左手に曲がり、梨の木坂を上ってゆくと左手に十返舎一九の歌碑が 置かれている。古くから峠の名物は栗こわめしであった。 十返舎一九が文政二年(1819)に木曽路を旅して詠んだ狂歌、 「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし(ここの名物)」が刻まれている。
そこから200m余坂を上ると、峠の上の集落の古い町並みが並ぶ。 江戸期の牛方衆の頭を務めていた今井家は、国の登録文化財となっている。 嘉永2年(1849)頃の建築で、間口8間、奥行6間の切妻造りの建造物、貴重な文化遺産。
峠の上の集落を出て、400mほど上ると馬籠峠。中津川市(岐阜県)と南木曽町(長野県) の境界、県道7号線から斜め右に山中に入り 一石栃立場茶屋をめざす。
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*記述にかんしては、中津川市市教育委員会制作の案内板および 、中山道歴史資料館の取材を参考に記載しました。また、記述の訂正等に関しては、中山道歴史資料館、中津川市観光課、馬籠観光協会のご協力を得て修整いたしました。