町の中心にある四ッ辻は北に向かう谷汲巡礼街道と伊勢に通じる養老街道と東西に延びる中山道が交差する。このあたりの中山道筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠十七軒と商家が軒を並べて繁盛していた。
青木一里塚から赤坂宿
垂井町から大垣市に入ると左手に青野の一里塚が立っている。その北側の県道216号線の北に美濃国分寺跡の史跡が広がる。美濃国分寺跡は昭和43年に発掘が開始され国分寺の寺域すべてが現存する全国唯一の史跡で史跡公園となっている。発掘により出土した資料は「歴史民俗資料館」に収蔵されている。
青野の一里塚から1km弱行った右手奥に照手姫が籠で水を汲んだと伝えられる井戸がある。その先の 左手には青墓遺跡 円願寺跡がひっそりとたたずんでいる。
青墓遺跡から650mほど進むと昼飯(ひるい)町の如来寺山門前まで来る。むかし、善光寺如来を大阪から長野の善光寺へ納める一行がこの付近で昼飯をとったことから名づけられたという。左手にある昼飯大塚古墳を通りすごし400mほどで赤坂宿に入る。
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赤坂宿
廃線となった西濃鉄道石灰製造工場への引込線を越えると、右手に赤坂御使者場跡が見えてくる。丘の上には、関ケ原の戦いの前日の9月14日、抗瀬川の戦いで戦死した東軍、中村隊の武将野一色 田頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられる甲塚が中山道を見下ろすように建っている。
そこから赤坂宿の中心、四ッ辻へと向かう。途中、南に下り茶屋屋敷跡に寄ってみる。茶屋屋敷は、織田信長の造営した岐阜城の御殿を 移築させ将軍専用の休泊所としたところ。中山道の四里ごとに造られ、このお茶屋屋敷は 現存する唯一のものとなっている。
中山道に戻り、所郁太郎の墓のある妙法寺を過ぎ、飯沼家が勤めていた脇本陣、母屋が登録文化財に指定されている矢橋家を過ぎると四ッ辻に来る。中山道と養老街道から伸びる谷汲巡礼街道が交差している。辻の北西角に碑が建てられている。
四ッ辻を過ぎ、右手に本陣跡を見る。赤坂本陣は、間口24間4尺、邸の敷地は2反6畝26歩、建物の 坪数は、およそ230坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。皇女和宮が、ここに泊した事は知られている。
そこから赤坂宿の東の入口へ進むと、橋の上から赤坂港跡が見渡せる。1900年初期ごろ、赤坂港には500艘を超える船が往来したといわれ、赤坂港会館でその様子が 紹介されている。橋を渡った右に大名などを出迎える、赤坂御使者場跡の碑が建てられている。
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赤坂宿周辺の史跡 勝山(家康本陣跡)
四ッ辻を700mほど南に下った小高い山の上に、関ケ原の戦いの前日赤坂に入った徳川家康が 本陣を構えた場所が、安楽寺の上にある。
元は岡山と言ったが、関ヶ原での勝利を祝して 勝山に改めたと伝えられている。本陣のある場所は、戦時中には高射砲の陣地として使われその跡を示す碑も立っている。
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赤坂宿周辺の史跡 明星輪寺(虚空蔵堂)と金生山岩巣公園
四ッ辻の手前、左奥にある子安神社の横の坂を登りきったところにある明星輪寺は、 日本三大虚空蔵の一つである本尊の虚空蔵菩薩を安置してることから「虚空蔵堂」とも 呼ばれている。
また、明星輪寺のある岩巣公園はカルスト台地で、無数の奇岩・怪岸が おりなす自然岩公園としても知られている。
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赤坂宿から呂久の渡しへ
杭瀬川を越え、1kmあまり行った右側に青木の一里塚跡の碑が民家の前に立っている。そこから神戸町と大垣市の境界に沿って七曲りと呼ばれる、くねくね道を進む。
七曲りが終わり、まっすぐ進むと左手に聖観音道標と谷汲巡礼街道が見えてくる。 そこから北東1.6kmのところにある曽根城は、天正のはじめ、春日局の父、斉藤利三が、 城主稲葉一鉄の重臣として住んだところ。現在は華渓寺の境内となっており、春日局ゆかりの地として知られている。
聖観音道標から1.5kmほど進むと、中山道は平野井川に沿って通る。美濃路・大垣道道標の 先、平野井川を渡った所に柳瀬の一里塚跡がある。 平野井川沿いを進み、左手に折れ橋を渡り呂久へと進む。
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