鴨之巣の一里塚から細久手宿へ
御嵩町から瑞浪市へ入ると鴨之巣の一里塚があらわれる。ほぼ原型をとどめていると思われる 両塚が、16m程ずれているのが特徴。幕末の頃には松が植えられていた。
ここから約500行くと鴨之巣道の道祖神碑が立っている。道祖神は災いや悪霊を防ぎ、 旅の安全をつかさどる神。村境や峠に祀られることが多い。
県道65号線と合流する坂の左手に三室に分かれた石窟がある。秋葉坂三尊石窟だ。 右の石碑に祀られているのは、馬頭観音立像、中央は 三面六臂(顔が三つで腕が六本)の馬頭観音立像。左の石室には風化の進んだ石仏が 安置されている。なお石窟の上に秋葉様が祀られていることから、秋葉坂とも呼ばれて いる。石窟の右端には秋葉辻灯籠が置かれている。
坂を下りきると中山道は、県道65号線と合流する。 秋葉辻灯籠を過ぎた所で、中山道を左手に折れ平岩公民館の方へ県道366号線を 1kmほど北に行った右手にある開元院は、室町時代前期の1439年(永享11年)に、 時の鶴ヶ城城主土岐頼元公が平岩の地への鷹狩りの途中で巨木繁る山中で 庵を結び座禅修行に励む禅僧に出会い、和尚(月泉性印)に豊かな人間性を感じた。 自らが先祖と仰ぐ土岐頼貞公と、土岐氏一族の菩提を弔う寺の建立を思い立ち 和尚(月泉性印)を初代住職に迎え、頼元が開いた寺「開元院」と名づけた。
中山道に戻り350m程進むとくじ場跡に着く。 「くじ場跡」とは、駕籠かきたちが荷の順番を決めるためたむろしていた場所。 次第に駕籠かきだけでなく宿場の人足たちが、休んだり博打を打ったりした所になったという場所。
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細久手宿周辺の文化施設 美濃歌舞伎博物館 相生座
美濃歌舞伎博物館相生座は、美濃歌舞伎を保存するために開業した。 恵那市にあった「常盤座」(舞台部分)と下呂市「相生座」(客席部分)を 移築復元している。現在は年二回、夏の納涼歌舞伎と、秋の敬老歌舞伎の 歌舞伎公演が開催されている。
博物館では、江戸時代からの歌舞伎衣装、鬘、小道具などを展示している。
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細久手宿
平岩の石仏を過ぎ、西坂辻の津島神社にさしかかる。神社の手前の中山道の両脇に 竹が立ち、縄が張ってある。これは、村境を示すことと悪霊が宿に入るのを防ぐために 置かれたという。その先の西坂の穴観音は、「九万九千日観音」とも呼ばれて、 1夜の参拝で9万9千回分ご利益があると言われている。
細久手宿の産土神社(生まれた土地を領有、守護する神)である日吉愛宕神社あたり が細久手宿の西の入口だ。日吉愛宕神社は細久手宿を開いた国枝氏により文禄4年(1595) に創建された。ここから脇本陣、本陣と続く。
細久手本陣の当主は、小栗氏で代々庄屋と問屋を勤めた。幕末頃の建坪は 約123坪(約406㎡)あったという。今では中山道沿いに碑が立つのみだ。 向かい側にあった脇本陣も今は空地になっている。
本陣跡から150mほど進んだ左手に江戸時代から営業を続けている旅籠「大黒屋」が 当時の姿のまま建っている。 細久手宿の本陣・脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、 問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、 『尾州家定本陣大黒屋』のはじまり。一般の旅籠とは異なり 本陣、脇本陣に準じたつくりがされている。
旅籠「大黒屋」から150m程行った左手に高札場跡の標識が立つ。このあたりが細久手宿の 東の入口だ。高札場跡の標識横の坂の上には庚申堂が建っている。 寛政10年(1798)の宿の大火で類焼し、現堂宇は享和2年(1802) に宿の守護仏として再建されたもの。境内には石造群が立並び、歌碑などもあり、 宿の文化の中心地であった。西の津島社を過ぎ奥之田の一里塚をめざす。
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西の津島社から八瀬沢の一里塚へ
中山道の通る県道352号線を右手に折れて、中山道は県道65号線と合流、奥之田の一里塚へ向かう。 奥之田の一里塚は、中山道の南北両側に二つの塚が残り、ほぼ原型をとどめており 貴重な文化遺産となっている。 一里塚の200m程先には、女男松と呼ばれた二本の並木松が立っていたが昭和初期に 枯れ石碑が残っているのみだ。
県道65号線(中山道)を1km程進むと左手に弁天池が広がる。 享和二年(1802)に太田南畝(蜀山人)が著した「壬戌紀行」に「左の方に 小さき池あり。杜若(かきつばた)生いしげれり。池の中に弁財天の宮あり。」 との記述がある。カキツバタやジュンサイの自生地になっている。 弁財天は通常は琵琶を持った天女姿だが、ここでは八臂(腕が六本)の立像が 祀られている。
弁天池を出て、三面八臂(顔が三つで腕が八本)の焼場の馬頭観音、天神辻の地蔵、 一ツ家立場跡を通り、北野坂の廻国石塔まで来る。 廻国塔とは、法華経を66部写経し、日本全国(66州)に奉納した際の記念碑。 ここから八瀬沢へと向かう。
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