八瀬沢の立場跡から紅葉洞の石橋
八木沢の立場跡を過ぎると石畳が続く、昭和45年春に発見されて、東海自然歩道の 整備に伴い復元され600mもあり日本で一番長い石畳道といわれている。
石畳の先は琵琶峠の入口。坂を上ると琵琶峠の一里塚とも呼ばれる八瀬沢の 一里塚の両塚が見えてくる。一里塚を過ぎ坂を上りきったところに琵琶峠 の馬頭観音が左手に建てられている。 頂上付近は景色にも恵まれ、旅日記にも峠からのことが多く書かれる中山道の 名所の一つ。
見晴台からの景色を楽しみ坂をくだると中山道は、ふたたび県道 65号線に合流する。琵琶峠の東の入口には琵琶峠東登り口石仏群がある。
大垣の大店の娘が、琵琶峠を通った時、山賊に襲われそのとき身代わりに なって斬られ娘を救ってくれた。 その話を聞いた娘の父が、もう一体寄進し、斬られた観音は傷跡を補修して 二体ならんで祀られている。山賊の出るようなおどろおどろしい場所であった ことだろう。
中山道(県道65号線)を進むと、安藤広重の絵にもある大湫の二つ岩が並ぶ、 そこを過ぎ、左手に大洞口の馬頭観音、、小坂の馬頭観音、右手に 紅葉洞の石橋の標柱を過ぎ大湫宿へはいる。
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大湫宿
大湫宿の西の入口に復元された高札場が立っている。 大湫宿は幕末の頃で、人口338人、家数66軒、 本陣1、脇本陣1、旅籠30軒。西町・神明町・中町・白山町・北町と続き、 北町と白山町の境に枡形があった。
高札場から200mほど行った左手の高台に観音堂が中山道を見下ろす。 観音堂は文政7年(1824)の宿大火で焼失、現在の建物は弘化4年(1847)に 再建された。道中安全、病気全快の観音様として信仰を集めた。 境内には数々の石仏、石碑があり、 「花ざか 山は日ごろの あさぼらけ」と刻まれた芭蕉句碑もある。
問屋 新森 森川家の前を過ぎると左手に神明神社の大杉がそびえ立つように 旅人を威圧する。 「大湫宿に過ぎたものが2つあり、神明神社の大杉と観音堂」といわれた 推定樹齢千二百年の巨木。蜀山人の旅日記にも記されている。 境内にある神明元泉は旅人たちの貴重な飲料水となっていた。
中町に入ると、左手に脇本陣がある。保々家が勤めた脇本陣は 部屋数19、畳数153、別棟6という広大な建物。現在は半分程度になっている。 問屋場跡の横の小道は、白山神社の参道。100mほど奥の坂の上に本殿が 鎮座している。
白山町には、国・登録有形文化財の旅籠・三浦屋、問屋 丸森 森川家が右手に 並ぶ。中山道を挟んだ向かい側には大湫公民館があり、中山道の資料を 展示している。大湫宿本陣は大湫公民館の裏手の小学校校庭にあった。 間口二十二間(約40m )、奥行十五間(約27m)、部屋数25、畳数212畳、 別棟添屋6と言う広大な建物。皇女和宮もここで宿泊した。
白山町と北町の境の枡形を右に折れ中山道は十三峠の入口へと進む。 枡形を中山道とは反対に左に行ったところにあった白木改番所は、 東濃地方一帯の山林と木材の管理を行っていた。 元禄七年(1694)尾州川並奉行所として設置され、奉行以下多くの藩役人・ 足軽などが常駐していた。天明年間(1781~1788)に縮小され、以降明治初年まで 同心級の役人5~6名が詰めて管理をおこなった。
枡形の角にある若竹屋は大湫宿唯一の店、その脇を通り、十三峠の入口へ 続く坂を上る。 入口付近にある宗昌禅寺は、女人講碑で有名な臨済宗の寺院。 天正年間(1573~92)に大湫村を開いた保々宗昌が、慶長五年(1600) に開基した。本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣としても利用されたという。 境内にある名号碑を見て、十三峠の入口付近の丘に祀られた寺坂の石仏群が 大湫宿の安寧を願うように見下ろしている。
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十三峠に入り権現山の一里塚をめざす
いよいよ難所といわれる十三峠に入る。 太田南畝の「壬戌紀行」の一文を刻んだ「しゃれこ坂」碑を見て、山中を進むと尻冷地蔵がひっそりと祀られている。 ここの清水は大変貴重でそれを感謝して建てられた。ちょうど清水でお尻を冷やしているように見えることからこの愛称で親しまれた。
尻冷地蔵から200mほど上ると、左手に阿波屋の茶屋跡がひろがる。 ここに祀られている三十三観音石窟は、大湫宿の馬持ち連中や助郷村 などの寄進により天保11年(1840)に建立された。 三十三体の馬頭観音が石窟の中にあり、「西国三十三カ所霊場巡礼」 信仰にちなみ、ここにお参りすれば西国巡礼と同じ御利益が得られるとされた。
阿波屋の茶屋跡を過ぎると、中仙道は中仙道カントリークラブのなかを横切る形で通る。敷地の入口から500mほど行った両脇に権現山の一里塚が姿を見せる。樫の木坂一里塚とも呼ばれている。その先に樫の木坂の石畳が下に向かってのびる。
平坦な道を500mほど進み炭焼立場跡に出る。 炭焼立場には小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤した。 太田南畝の「壬戌紀行」に「俗に炭焼の五郎坂というを下れば炭焼の 立場あり左に近くみゆる山は権現の山なり。」という記述がある。 ここは眺望に恵まれて、十三峠では特に旅人に親しまれた。 すぐ先には刈安城のあった権現山の山頂にある刈安神社参道が左手に見える。
大久后の立場跡を通り、中山道の石碑を過ぎ恵那市へ入る。
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