深萱立場から紅坂の一里塚
三つの城が見えたといわれるほど見晴らしのいい三城峠を越え みつじ坂を下ると、深萱立場茶屋跡に出る。 深萱立場は、大湫宿と大井宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋 など10余戸の人家があった。立場本陣は身分の高い人お休憩所で、 門や式台の付いた立派な建物。馬茶屋では馬を休ませた。
しばらく行った左手に藤村高札場跡に当時の半分ほどの高札場が復元されている。 高札場は村のうち人通ろが多い場所に、一村一ヶ所建てるのが普通であった。
中山道は右に折れ、神明神社の入口あたりに比羅さんとお伊勢さん秋葉さんの 三つの神様を祀った三社灯篭が立っている。中山道をはさんだ向かい側に 佐倉宗五郎大明神が祀られている。 元禄年間、岩村藩で農民騒動が起き、竹折村の庄屋田中田中与一郎は将軍に直訴して農民達を救ったが、打ち首になった。そのまま祀ると咎めを 受ける恐れから、同じような運命をになった佐倉宗五郎の名で建立したと 言われている。
そこからまもなく紅坂の石畳にさしかかる。坂に入ってすぐのうばが 茶屋跡の標識を過ぎると、花崗岩が風化してぼたんのように見えるぼたん 岩がある。坂をのぼりきると紅坂の一里塚の両塚が現れる。地元の保存会によって整備されており、県の史跡にもなっている。
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紅坂の一里塚から姫御殿跡
そこから田園に沿ってしばらく行った所からは、田園越しに権現山が見渡せる。 しばらく歩き四谷へ入る。四谷には岩村へ通じる殿様街道との追分もあり高札場もあった。
さらに進み乱れ小川にさしかかる。 江戸時代には石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に橋を架け、 荷駄を積んだ馬1頭につき2文ずつ徴収したこともあった。そこから続く乱れ坂は大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、 女の人の裾も乱れるほどであった。
坂を上りきると右手に首のない地蔵が立っている。 昔、二人の中間がここで休憩している時眠ってしまい、一人が目覚めると もう一人の首は切られていた。怒った中間は、黙ってみていた 地蔵様の首を切り落とした。それ以来、どうしても首がつながらなかった という伝説が残っている。
その先左手の丘の上に姫御殿跡がある。 ここは祝峠といい、見晴らしがいいので旅人にとって格好の休憩地であった。 松かさが多くつき、子持ち松といった。この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が 見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所と言われていた。 そのためお姫様の通行のときなどに、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。
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槇ヶ根の追分から大井宿へ
姫御殿跡から、600mほど進んだ右手に槇ヶ根の追分碑が立っている。 中山道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。 下街道は竹折、釜戸から現在の土岐市、多治見市を経て名古屋へ通じている。 現在の国道19号線のルートだ。
その先の広場は、槙ヶ根立場茶屋跡。江戸時代の末頃ここには槙本屋、 水戸屋、東国屋、松本屋、中野屋、伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あった。 多くの人がひと休みしてまた旅立っていった。 茶屋のあった所には伊勢神宮遥拝所跡もあった。 伊勢神宮参拝の人はここで中山道と分かれて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。
槙ヶ根立場茶屋跡から1kmほどで槇ヶ根の一里塚に着く。右手の眼下に 西行の森が広がる。一里塚を過ぎ、石畳の坂の途中に西行塚がある。 西行がこの地で亡くなったという伝説は古くからあり、歌聖西行法師の供養のため造られたといわれている。 小さな塚の上には、高さ1.4m の五輪塔が立っている。西行塚を出て、坂を下りきったところで 「十三峠に おまけが七ツ」 と言われた 難所、十三峠が終わる。馬頭観音と十三峠の碑が立っている。
十三峠の出口から、永田川を渡った所にある中野の観音堂まで約1.2km。 かっての中田村の中心部にある中野の観音堂は、江戸時代からこの場所にあった。観音堂の脇には、中野村高札場もあり、参詣者も多かった。 観音堂の前の秋葉燈篭は、寛政八年(1796)に建立されたものという。 すぐ近くには、屋号を本酒屋と名乗った中野村庄屋宅の邸宅が今も威容を 放つ。ここから銀座通を通り歌川広重の浮世絵にも描かれている大井橋を 渡ると大井縮の西の入口だ。
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大井宿
大井宿は、人口 466人、家数 110戸、本陣 1軒、脇本陣 1軒、旅籠 41軒の 規模。 中山道と名古屋・伊勢に向う下街道の分岐点である槙ケ根追分に近く、 中山道野旅人のほか、伊勢参り・善光寺参りや尾張商人、尾張に向う木曾の牛馬の荷などが通り、美濃十六宿中随一の繁栄を誇っていた。宿は横町・本町・堅町・茶屋町・橋場という五町に分かれ、西の大井橋から東の高札場まで6丁(710m)。大井宿には街道が直角に曲がるいわゆる枡形が6ヶ所もあった。
最初の枡形に入ると、市神神社がある。市神神社は福の神で、300有余年の伝統を誇る七日市にはお礼を迎えて今年一年の家内安全と商売繁盛を祈る。
市神神社の前の中山道沿いにある大井村庄屋古谷家は、天保元年(1830)から 二十年間ほど庄屋を勤めた。 間口十五間(約27m)、奥行三十一間半(約65m)の敷地が街道に面している。 右側に表門があり、その奥に玄関・式台が付き、茶室に続いて十五畳二間 続きの特別室がある豪邸。その先角には旅籠屋 角屋がある。
角屋のところを左手に折れ、大井宿の中心部へ進む。 明治天皇行在所の碑がある伊藤弥兵衛宅(現岩井家)の奥座敷はそのままの姿で保存されている。その斜め向かいの高木家は脇本陣職を勤めた。 建坪八十九坪の大きさで、上段の間、四坪の庭があったが、今は残っていない。問屋場は上問屋、下問屋の二ケ所あり、上問屋と下問屋に交替して勤めていた。
ひしや資料館の斜め向かいの左にある林家は文化二年に本陣家より分家して以来、明治に至までの60余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄だ。
現在、ひしや資料館として公開されている大井村庄屋古山家は、菱屋という屋号で酒屋を営み、享保から幕末までの約150年間、庄屋を務めた。屋敷は間口十間半(約19m)、奥行三十五間(約63m)の広さがあり、大規模で質のよい近世的町屋建築が体感できる。
その先の枡形の角にある大井宿本陣跡は、昭和22年に母屋部分は火災で焼失し本陣の表門周辺を残すのみとなっている。この門が、かろうじて安土桃山様式を伝えている。本陣の南、小高い丘のうえにある大井小学校の場所には、永享七年(1435)に築城されたといわれる大井城があった。
大井宿本陣跡を過ぎたところの枡形を右に折れ上宿へと向かう。上宿は恵那市街を一望できる場所にある。 枡形を曲がったところにある高札場は復元されたレプリカ、実際は 復元場所から約40m東にの坂の上にあり高さ3.6m、巾4.5mの大形の ものであったという。
坂を大井宿の東口、菅原神社まで上る途中に.上宿の石仏群、上宿の馬頭観音が左手に並ぶ。 ここから南に100mほど下ったところにある長国寺は、当初長興寺と称していた曹洞宗の古刹。応仁の乱(1466-77)の兵火により多くの堂宇、記録、寺宝が消失し、再建後に現在の寺号である長国寺に改称した。平安時代の歌人西行の葬送の寺といわれている。
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大井宿を出て岡瀬沢へ
ふたたび中山道に戻り菅原神社から200mほど進むと、関戸の一里塚跡碑が右手に立っているのみで、当時の面影はない。
一里塚跡から500mほど来た高台の上の根津神社の境内に根津の宝篋淫塔祀られている。根津の宝篋淫塔は源頼朝の御家人である根津甚平は、長国寺で子宝を願い、授かった。没したのち、民人によって祖霊に崇められ葬られた場所であると伝えられる。
根津神社の前の坂をくだり岡瀬沢へ向かう。 岡瀬沢の常夜灯に向かう途中にあるのが岡瀬沢の庚申碑。岡瀬沢では、庚申講がとてもさかんで、「庚申待ち」といって、講元の家に集まり庚申(青面金剛)の掛軸をかけて、その日はお茶飯と汁、漬物等の夕食 を頂き、夜明け方まで長く話をしていた。それは庚申の日がやってくると腹の中に三戸虫(三匹の虫)がいて、庚申の夜になると寝ている間に天帝にその人の悪いことを報告して、命を縮める為、寝ずにいると虫は出て行かないという謂れから、一晩中寝ないでいたと言われている。
庚申碑から350mほどで恵那市と中津川市の境界に達する。 岡瀬沢の常夜灯は、境界を望むように中山道の右側に立っている。 岡瀬沢は中山道の整備とともに発展した村、中山道に沿った約三十戸がその中心集落となり、茶屋や馬宿もできたといわれている。
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