茄子川から中平の常夜灯へ
中津川市に入り、茄子川の石仏を過ぎると茄子川(なすびがわ)村の中心部。江戸時代初期の茄子川村は、尾張徳川家・山村氏・千村氏・それに旗本馬場氏ら八名の入相支配地。村高6368石余のこの付近でも大きな村の一つであった。安永五年(1776)に建立された茄子川の常夜灯の立つ所は、塩の道 遠州秋葉道との分岐点。「是よりあきはみち」と刻まれている。
篠原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川村の村方役人、尾張藩の庄屋、戸長等を歴代にわたり務めていた。篠原家は、中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割をにない皇女和宮、明治天皇が 御小休した建物が現存している。
ここから300mほど行った左手に尾州白木改番所跡の碑がある。尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した丸太類は木曽川で流送し、切り出したままの、皮のついた材木や厚い板材、白木類は牛、馬によって中山道で運ばれた。木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていた。
番所跡300mほどの茄子川村の高札場跡を過ぎ、坂道を上りきったところに坂本立場跡の石柱がある。千旦林村と茄子川村の境界だった場所で5軒の茶屋があったとされている。すぐ傍らには馬の水飲み池もある。
三津屋の馬頭観音、三ツ家の一里塚跡をすぎると、左手奥に三津屋の将軍塚 が見える。二代目美濃代官、岡田将監善同(よしあつ)の墓といわれる。ここから約450m、田んぼのなかに中平の常夜灯が立っている。
より大きな地図で 中津川宿・落合宿と中山道 を表示
坂本八幡から小石塚の立場跡
中平の常夜灯から750mほど進んだ右手にかじや平の石仏群がひっそりと祀られている。その先の左手、坂本八幡宮の参道の手前に千旦林高札場跡の石柱が立っている。坂本八幡宮の参詣者でにぎわった場所であったと思われる。
坂本八幡宮は、大宝2年(702)に社殿が建立された美濃国式内社(延喜式神名帳に記載された神社)。天正2年(1574)に武田勝頼軍の東濃侵攻の際戦火を蒙り御本殿一宇を残し全て灰燼に帰した。その後、千旦林村の村民の努力により復興し現在にいたっている。
注:延喜式神名帳:平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである 延喜式に記された、当時「官社」とされていた全国の神社一覧。
坂本八幡宮の参道から約500m進むと、六地蔵石幢が左手に立つ。寺院や墓地の入口に置かれる石佛がこの六地蔵であり、この石幢は大林寺(現中洗井)の入口として 寺の創立24年後、明暦3年(1657)に造立された。地蔵菩薩は、釈迦入佛後、無佛の間この世に現れて衆生を救済する菩薩とされ、 常に六道を巡って衆生を救い極楽に行けるよう力を貸してくれると信じられていた。 更に六ツの分身を考えて六地蔵としての信仰が平安末期に始まったといわれており、六面に地蔵が六体刻まれた石灯籠の形をしている。
ここから中央自動車道により一部消滅した中山道を900mほど進む。千旦林村の境に小石塚の立場跡碑が 国道19号線を見下ろすように立っている。その昔、「恋し塚」とも呼ばれたこの地に数軒の茶屋があったそうだ。
より大きな地図で 中津川宿・落合宿と中山道 を表示
駒場村
小高い丘の上にある会所沢の石碑を通り越し駒場へと進む。駒場下町にある上宿の一里塚跡には、両側とも榎が植えられていた。現在南側の塚は消滅し、北側にあった塚が昭和9年に復元されている。規模としては往時の約1/3の大きさという。
その先の「こでの木坂」を上りきると苗木城へ通じる脇道があり、ここにある数多くの石仏の中に双頭一身道祖神が祀られている。文化13年(1816)に建立され、男女別々の頭部を持ち、肩から足元にかけて 一体となっている珍しい形態の石像物。美濃地方には道祖神は数少ないといわれるが、特に身体が一つで男女別々の頭を持つ 双頭一身は岐阜県内にはここしかない。
坂をくねくねと曲がり駒場村の高札場跡に向かう。駒場村は東山道時代の坂本駅(宿駅)が置かれていた場所ではないかという推測が伝えられている。 江戸時代には、高官を迎える駅館,駅子等の住家や30頭の馬屋などの建物が在ったと伝えられている。
高札場跡から250m行った坂の中程に左手に石屋坂の名号碑があり、四つの石仏が並んでいる。 坂の下の津島神社の参道を過ぎ、中津川宿へと進む。
より大きな地図で 中津川宿・落合宿と中山道 を表示
中津川宿
中津川橋を渡り、中津川宿へ進む。 中津川宿は、人口 928人、家数 228軒、本陣 1軒、脇本陣 1軒、旅籠 29軒下町、横町、本町、新町、淀川町、茶屋坂と続き、宿の長さ十町七間(約1100m)の宿場。
当時の中津川宿の様子を記した「壬戍紀行」(太田蜀山人記)によると、「駅舎のさきにぎはゝし すべて此わたりより家居のさまよのつねならず屋の上には大きなる石をあげて屋ね板をおさふ寒さ甚しければ瓦を用ひがたく壁の土もいて落つるにや板をもてかこめり」とあって、 余りの凍みに瓦が割れてしまうことから、すべて板屋根で本陣とて例外ではなかったという。
橋から200mほどの所に枡形があり、その手前にある、はざま酒造は400年の歴史を持つ「恵那山」の蔵元。 枡形を曲がり横町にある「和菓子店 川上屋」は、元治元年(1864)創業の栗きんとんの老舗。ふたたび枡形を右に曲がり本町へ進む。
左手に今は駐車場になっている中津川宿本陣跡の敷地がある。かって本陣の入口には五軒続きの長屋が建ち、その中央の一軒分が 門となっていた。門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると 裏庭があり、その奥に建坪283坪(937㎡)の本陣があった。
本陣跡の向かい右手角の「卯建(うだつ)」がある建物は、中津川村庄屋居宅。江戸時代は中津川村の庄屋を勤めた肥田家が所有していた。肥田家は代々「九郎兵衛」と名乗り、屋号は田丸屋といい、島崎藤村の「夜明け前」には小野三郎兵衛として登場している。明治30年代になると曽我家がこの建物を譲り受け、中津川で最初に開業した医院となった。
道を挟んだ、東隣りにはNTT西日本中津川ビルの一部を借用して 中山道歴史資料館が開館、中津川市の重要な古文書・公文書等を所蔵、展示している。資料館の南裏の脇本陣跡には、現在「脇本陣上段の間」が復元されている。脇本陣は、建坪百二十八坪で代々森家が務めていた。
四ツ目川橋を渡り、新町に進む。中山道の右手にある間家は白木、白木製品、塩の 販売で当時東濃随一の豪商といわれ、尾張徳川家の御用商人にもなっている。宿の年寄り役をつとめるなど、宿の経済と文化の興隆に大きな役割を果たした。その向かいには、昔の宿場町の一部を再現した中津川宿往来庭が造られている。
東町の茶屋坂の高札場まで来ると、中津川宿東の入口だ。近年復元された高札場の向かって左約40m隔てた道路の左側にあったという。復元された高札場には、正徳元年(1711)に公布された高札の複製が掲げられている。
より大きな地図で 中津川宿・落合宿と中山道 を表示
中津川宿を出て子野一里塚へ
高札場跡の坂を、旭ヶ丘公園へ行く途中に 「山路来て 何や羅遊(らゆ)かし 寿み連(すみれ)草」 と刻まれた寺坂の芭蕉句碑が置かれている。 旭ヶ丘公園のなかにある、旭ヶ丘天満宮の境内には、公園内のは数多くの石碑や石仏が置かれている。そのひとつ三井寺観音は、歯観音といって虫歯の痛みを治す 仏と伝えられている。
公園を過ぎ、坂を200mほど下った左側に上金の白木改番所跡が見える。 白木とは桧(ひのき)など木の皮を削った木地のままの木材で、屋根板、天井板、桶板などに利用した。村人達は、桧細工で生計を立てていた。尾州藩は領外への搬出を厳しく取り締まり、 白木や ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ を はじめとする木曽五木の出荷統制を白木改番所で行った。
ふたたび坂を下り、秋葉常夜灯を過ぎ子野に向かう。小高い丘の上にある子野の石仏群には、庚申塚や地蔵 、観音像など、数多くの石仏が集められている。ここから600mほど進んだ所にある子野の一里塚跡碑を右手に見て与坂立場跡へと向かう。
より大きな地図で 中津川宿・落合宿と中山道 を表示
中津川市の遺跡ー苗木城
築城時期については諸説があり定かでないが,大永・天文年間(16世紀前期~中期) に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)を拠点としていた遠山氏がこの地に移り住んだものと思われる。
その後戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われるが、関ヶ原の戦いに先立ち遠山友政が 城を奪還し、以後江戸時代を通じ12代にわたり遠山氏が城主として治めた。
城の縄張りは本丸、二の丸、三の丸等に区分けされ、残っている城の絵図から17世紀の 中頃には近世城郭としての苗木城の姿が完成していたと思われる。
城の建物は明治4年に取り壊され,現在は石垣のみが遺されているが,城門のひとつが 苗木遠山史料館に保存展示されている。 (中津川市苗木遠山史料館説明文より抜粋)
より大きな地図で 中津川宿・落合宿と中山道 を表示
*記述にかんしては、中津川市教育委員会制作の案内板および 、中山道歴史資料館の取材を参考に記載しました。また、記述の訂正等に関しては、中山道歴史資料館およびの中津川市観光課のご協力を得て修整いたしました。