安井俊夫の「シリーズ愛知万博を語る」その8-万国博覧会の歩みを語る

【動画】シリーズ愛知万博を語るその8

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No1愛知万博事務次長に就任
No2戦争体験の継承を
No3県庁職員時代のエピソード1
No4県庁職員時代のエピソード2
No5県庁職員時代のエピソード3
No6県庁職員時代のエピソード4
No7県庁職員時代のエピソード5
No8万国博覧会の歩み
No9主会場青少年公園に変更
No10環境に配慮した会場建設
No11市民参加と愛知万博
No12ナショナルデー
No13官民混成の難しさ
No14ECO技術
No15愛知万博の遺産
万国博覧会の歩み
万国博覧会の歩み

第8回

-インタビューの内容を要約して記事にしています-

万国博覧会の歴史

万国博覧会は、1851年に2012年ロンドンオリンピックの会場にもなった、ハイド・パークで初めて開催されました。当時、イギリスは産業革命により成長が著しく国威発揚と、街づくりを兼ねて万博を開催しました。フランスも最初の開催を希望していましたが、イギリスに先を越され随分悔しがったと伝えられています。第2回目のニューヨーク万博の後、1855年にフランスのパリで開催されました。19世紀の後半は、ロンドンとパリが競争する形で万国博覧会隆盛の時代を迎えました。その流れのなかで日本も江戸時代の末期の1867年、第2回パリ万博に江戸幕府と薩摩藩、鍋島藩(現在の佐賀県)が工芸品などを持って参加しています。

博覧会国際事務局(BIE-Bureau International des Expositions)の設立

その当時は金銀銅のメダルが授与されていました。メダルをたくさん獲得した国が、国際貿易で繁栄したといわれています。愛知県の瀬戸も数多く出品した陶芸品で金メダルを獲得し、それがきっかけで瀬戸の陶器が世界に知られることとなりました。オリンピックは、当初万国博覧会のいわば余興のような形で開催されており、現在のようにメダルの授与も行われていませんでした。そのうちに、万国博覧会でのメダルの授与をやめようかという声が19世紀の終盤にあがり、近代オリンピックの父、クーベルタン男爵がオリンピックを独立させメダルの授与も継承することになり、現在のように金銀銅のメダルを表彰に使うことになりました。 一方、万国博覧会は1928年にパリで国際博覧会条約が締結され、それにもとずいて博覧会国際事務局(BIE-Bureau International des Expositions) が設立され、博覧会は、公衆の教育を主たる目的とするという大前提を置き、現在のように5年に1回の開催、またテーマを決めることになりました。大阪万博は「人類の進歩と調和」、21世紀最初の愛知万博では「自然の叡智」をテーマに開催されました。

「愛・地球博」命名のエピソード

愛知万博の正式名称は「2005年日本国際博覧会」ですが、これではぜんぜん面白くないということで「愛知万博」という愛称をつけました。当時の坂本春生事務総長が当時の小泉首相を訪れた際、「愛知万博」の名称では地方博のイメージがすると言われたので、小泉首相にアイデアをお聞きしたところ、「愛・地球博」がいいと言われそれを正式に採用することになりました。地元では「愛知万博」の愛称を使いましたので、かっての万博ではおそらく初めての、3つの名称が並ぶこととなりました。

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