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- No1愛知万博事務次長に就任
- No2戦争体験の継承を
- No3県庁職員時代のエピソード1
- No4県庁職員時代のエピソード2
- No5県庁職員時代のエピソード3
- No6県庁職員時代のエピソード4
- No7県庁職員時代のエピソード5
- No8万国博覧会の歩み
- No9主会場青少年公園に変更
- No10環境に配慮した会場建設
- No11市民参加と愛知万博
- No12ナショナルデー
- No13官民混成の難しさ
- No14ECO技術
- No15愛知万博の遺産
2005年に開催された愛知万博(愛・地球博)は、誘致決定から開催にいたる過程で主会場の変更など様々な難題を乗り越え2005年3月25日から同年9月25日まで開催され目標を大きく上回る入場者数をの来場を得て終了しました。旧来の「開発型」「国威発揚型」の万博から「自然の叡智」(環境保護)をテーマに環境保護を掲げた、新しい博覧会のスタイルを確立したと評価されています。
2015年に10周年を迎える愛知万博を迎えるにあたり安井 俊夫氏 (2005年日本国際博覧会協会 事務次長)に取材を行い、幼年期の戦争体験、愛知県庁職員時代のエピソード、愛知万博の誘致決定から開催にいたる経過、未来への愛知万博の理念継承など、現場の第一線で指揮を執られた安井氏ならではの体験談をシリーズでお伝えする企画です。
第2回
-インタビューの内容を要約して記事にしています-
次世代に戦争体験の継承を
今の若い人は戦争のことをまったく分っていない。戦争の怖さ、戦争の時に人の命がいかに軽く扱われるか、それを何とか伝えたい。戦争体験の経験者が、次の世代にバトンタッチする義務があるだろう、 特に私の場合は昭和20年の5月14日の名古屋大空襲を経験していますから。朝から20機くらいの編成で名古屋市街地を絨毯(じゅうたん)爆撃、結果的には440機来たといわれています。お昼前には空襲が終わったんですが、庄内川の堤防に上がってみたら、一段高い所で火柱が立っている。見ている年配のひとが「お城が燃えとる!」といって泣いていました。名古屋の街一面に煙がたなびいて、その上に火がでている。これを見て子どもながらに悲しかった。
戦争は、昭和20年8月15日に終わったんですが、その日もお天気の良い、暑い日でした。その当時は、夏休みはなく学校へ行ってましたら、今日は天皇陛下の玉音放送があるから帰宅して聞いたら、また学校に来なさいといわれました。しかし、当時はラジオの性能が悪く、昭和天皇のカン高い声で放送がありましたが、良くわかりませんでした。でも、負けたらしい。私は疎開先にいましたが、一つは負けて悔しかったけれども、疎開先から帰れるとも思いました。それと、戦争当時は一家で一灯しか電気をつけることが出来ませんので、今日からは電気も遠慮なく点けれるなど、思いは複雑でしたが、そんな思いを作文にして「米英に負けて悔しいけど、いつか頑張るぞ」と書いたみたいです。空襲とか疎開に体験の苦しさや見たことを次世代につないでゆきたい。
ある老婆が、B29(米軍の主力爆撃機)の話を若い人に話したところ、「おばあちゃんの頃は、鉛筆がB29まであったんだ、濃い鉛筆だねえ!私たちの時にはB4までしかなかったよ」といったことが無いように、記録に残してゆこうと思い昨年(2013年)11月3日に「大空襲、名古屋のお城が燃えとる」を書きました。
少年期の思い出
疎開から帰り焼け残った小学校に戻りましたが、周辺は空襲でやられてますからよその学校からも生徒が来て、大変でした。小学校で3000人近くいました。1クラスが70人くらい、1年2年は教室が足りず午前と午後の2部制でした。また、男の先生は兵隊に行ってますので、ほとんどいませんでした。旧制中学や旧制女学校を卒業した、詰襟(つめえり)の制服を着た先生が、代用教員として教えました。
しかし、そういう人たちが若いのに1クラス70人あまりの生徒をみごとに仕切って教えたことは立派だと思います。たまたま、当時教えていただいた先生が近所に住んでおられ、お話を伺ったところ「自分でもよくやった」とおっしゃっていました。
大学卒業、愛知県職員に
そんな環境のなかで少年期を過ごし、大学進学にあたって東京に行きたいと思い中央大学の法学部に進みました。就職にあたっては、地元へ帰るか東京に残るかずいぶん迷いましたが、東京は人が多くて何をやっているのかわからないと考え、愛着のある地元へ帰ろうと思い、愛知県の上級職員の採用試験を受験し運よく受かりました。