安井俊夫の「シリーズ愛知万博を語る」その5-豊橋技術科学大学設立のエピソード

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No1愛知万博事務次長に就任
No2戦争体験の継承を
No3県庁職員時代のエピソード1
No4県庁職員時代のエピソード2
No5県庁職員時代のエピソード3
No6県庁職員時代のエピソード4
No7県庁職員時代のエピソード5
No8万国博覧会の歩み
No9主会場青少年公園に変更
No10環境に配慮した会場建設
No11市民参加と愛知万博
No12ナショナルデー
No13官民混成の難しさ
No14ECO技術
No15愛知万博の遺産

第5回

-インタビューの内容を要約して記事にしています-

イギリス留学の成果

当時は、愛知県庁でも定年間際の偉い人たちが外国に行った時代でした。ところが報告書が出るか出ないくらいに退職される。それはそれで長年苦労されたのでかまわないと思いましたが、若い人にも機会を与えてほしいと幹部に陳情しました。それに対して、一人で行くこと、語学ができること、一つの国に行って学んだことを帰国後に2万字のレポートを提出することを条件に認められました。当時はみな行きたいということで結構、倍率が高かった。10年くらいして日本が豊かになったら人気が無くなりましたが・・・。
私の場合は2ヶ月イギリスに行きました。一人でアポイントを取って、あちこち廻りました。帰国後、最も成果があがったのは、当時週休2日制が、そろそろ普及し始めたころなので、余暇問題の対策でした。余暇の時間を過ごすにも場所がない。身近なところでスポーツをやったり勉強会をやるにも場所がありませんでした。それにあった場所をつくるだけでも、とんでもないお金がかかります。グランドひとつ作るにも何億というお金がかかります。そんなことを全部できるわけが ありません。イギリスでは学校を、夕方の5時までは学校教育で使用する。5時以降、アフターファイブになったら学校の先生ではなく、社会教育の人が来てグランドの管理を行い、たとえば ガラスが割れたら別の予算で補填する、休日もこのように行うように提案しました。しかし先生たちには、あまりいい顔をされませんでした。当時の教育長だった、のちの仲谷知事に進言したら、「それしかない、すぐやれ」と いうことで始まったのが、いまの学校で行われている夜間開放につながりました。時期を得て、いい仕事ができたと思っています。

豊橋技術科学大学設立のエピソード

現在、豊橋に技術科学大学がありますが、高等専門学校を卒業した、大学の3、4年と修士過程の2年の一貫教育がおこなわれています。技術科学大学の構想がなぜ出てきたかというと、昭和42ころに高等専門学校が全国に新設され、愛知県でも豊田高等専門学校が開校したのですが、実は豊橋高専として開校するはずが、いつのまにか豊田高専になってしまいました。いろいろな事情があったのですが、当時の河合市長が 桑原知事にうそをつかれたと激怒されました。当時、私は副知事の秘書だったので一緒に市長を訪問したところ、次の高等教育機関は必ず豊橋に誘致することの確約を副知事に求めました。副知事は了解しましたが、退職まじかだったので副知事だけでは駄目ということになって、私に証人になるように求められました。
そのことは、ずっと気にかけていたんですが、昭和40年代後半になって、田中角栄さんの地元である長岡市にあった高等専門学校が、新潟大学工学部に吸収されなくなってしまい、どうしても技術科学大学をつくりたい、しかし長岡だけでは、まずいので太平洋側に一つ、日本海側に一つ設置したらどうかという情報を得ましたので、さっそく手を打って、生徒を募集する前に発表し無事、開校する運びになりました。
開校にあたり、ある市議から苦労して誘致にこぎつけたのだから豊橋の学生を優先的に入れるべきだとの質問に、河合陸郎市長が答えた言葉が今でも記憶に残っています。「全国の有意な若者が、青春の一時期を豊橋で勉学に励み、全国に世界にはばたいてくれれば良い」と言い切り、この言葉には一同、声がありませんでした。

人物紹介

仲谷義明(愛知県知事 1975年-1983年)

大正14年(1925)名古屋市生まれ。東京大学卒業後、自治省に入省。 岐阜県勤務の後、愛知県庁へ。教育長、副知事を経て昭和50年(1975)、愛知県知事選に出馬当選。 2期務めるが、ソウルオリンピック誘致失敗などもあり3期目は不出馬、知事を退く。

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