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- No1愛知万博事務次長に就任
- No2戦争体験の継承を
- No3県庁職員時代のエピソード1
- No4県庁職員時代のエピソード2
- No5県庁職員時代のエピソード3
- No6県庁職員時代のエピソード4
- No7県庁職員時代のエピソード5
- No8万国博覧会の歩み
- No9主会場青少年公園に変更
- No10環境に配慮した会場建設
- No11市民参加と愛知万博
- No12ナショナルデー
- No13官民混成の難しさ
- No14ECO技術
- No15愛知万博の遺産
2005年に開催された愛知万博(愛・地球博)は、誘致決定から開催にいたる過程で主会場の変更など様々な難題を乗り越え2005年3月25日から同年9月25日まで開催され目標を大きく上回る入場者数をの来場を得て終了しました。旧来の「開発型」「国威発揚型」の万博から「自然の叡智」(環境保護)をテーマに環境保護を掲げた、新しい博覧会のスタイルを確立したと評価されています。
2015年に10周年を迎える愛知万博を迎えるにあたり安井 俊夫氏 (2005年日本国際博覧会協会 事務次長)に取材を行い、幼年期の戦争体験、愛知県庁職員時代のエピソード、愛知万博の誘致決定から開催にいたる経過、未来への愛知万博の理念継承など、現場の第一線で指揮を執られた安井氏ならではの体験談をシリーズでお伝えする企画です。
安井俊夫氏 プロフィール
昭和12年 愛知県に生まれる
昭和36年 中央大学法学部卒業
愛知県庁に勤務し、芸術文化や福祉関係の部局長、教育長を経て 平成9年から「2005年日本国際博覧会(愛知万博)協会」の事務次長 を務める。
平成16年からは愛知総合看護福祉専門学校(もりのがくえん)校長に就任、学生から「モリゾー先生」と呼ばれている。
平成19年 瑞宝小綬章受賞。
著作等
昭和39年「新広域行政論」(第一法規出版)-村田敬次郎、武村正義、小寺弘之氏と共筆
昭和48年「人間と環境-21世紀社会への道」(中部開発センター) 社会部門担当
平成25年「黒ネコもりハナ物語」(文芸社)
第3 回
-インタビューの内容を要約して記事にしています-
愛知県立芸術大学の新設
昭和36年(1961)の4月に愛知県庁に入庁し、愛知県知事直轄の企画課に配属されました。はじめて行った日に課長を見たら大変若い、マンボズボンをはいた課長だったんですが。この人が、後に衆議院議員になり通産大臣とか自治大臣になった村田敬次郎さん、この人に出会ったのが幸いでした。若い人の思いっきり仕事をさせてくれました。
ちょうどそのころ愛知県新地方計画を作成していました。その中に文化という言葉がない、文化の計画が無いということで、私と2年先輩の後藤さんと二人で問題提起をしました。課長も部長もそんな文化なんて役所がやることじゃないぞと、中々認めてもらえませんので、それじゃ知事のところへ行ったらどうだ、行けるかと言われて、無謀かも知れませんが、行きますといって桑原知事のところへ行きました。そして、文化の話を知事にして目玉は県立の芸術大学設置をめざしていると提言したら、知事が「それだ、それをやろう」ということになって、すぐ調べろ、長久手あたりに土地があるぞ、できればパリのモンパルナスのような美術の丘を造ろうじゃないかという運びになりました。
新事業への情熱
自分たちが思っていたことがうまくいって、ずいぶん自信をもちました。また、まわりにも 「あいつらは、荒っぽいけど何かやりそうだ」といった雰囲気が生まれ。それ以来、新しいこととか、難しいことになると安井さんと新聞記者などにも言われるようになりました。
新しい仕事というのは難しいものです前例がないから。役所というのは前例が好きなんです。前例がないことを避ける傾向がある、しかし一つの大きな山を越えると自信になりますし、人のためになるという満足感も得られます。たとえば、愛知万博のときでもそうです。皆が、「こんな難しい仕事を」といった時に、「こんな難しい仕事をやって世界に名を残せることはめったにない、地図を見てごらん地図に必ず万博記念公園と載る、そんな仕事と出会えることは、名誉なことで自分にとって幸せなことだよ頑張ろう」といって、以後いろいろなことをやっています。
人物紹介
桑原幹根
明治28年(1895)、山梨県生まれ。東京帝國大学法学部卒業後、内務省に入省。
昭和21年(1946)に官選の愛知県知事に就任したが公職追放になる。
公職選挙法施行後の昭和26年(1951)に、愛知県知事選に出馬当選。
2代目の愛知県知事として6期24年間務める。
村田敬次郎
大正13年(1924)、愛知県豊橋市生まれ。京都帝国大学法学部卒業後、自治省に入省。
愛知県職員を経て、昭和44年(1969)衆議院議員に当選。当選回数10回を数える。
自由民主党で、通商産業大臣、自治大臣などを務めた。