安井俊夫の「シリーズ愛知万博を語る」その4-副知事秘書時代の思い出

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No1愛知万博事務次長に就任
No2戦争体験の継承を
No3県庁職員時代のエピソード1
No4県庁職員時代のエピソード2
No5県庁職員時代のエピソード3
No6県庁職員時代のエピソード4
No7県庁職員時代のエピソード5
No8万国博覧会の歩み
No9主会場青少年公園に変更
No10環境に配慮した会場建設
No11市民参加と愛知万博
No12ナショナルデー
No13官民混成の難しさ
No14ECO技術
No15愛知万博の遺産

第4 回

-インタビューの内容を要約して記事にしています-

副知事秘書に

昭和39年(1964)に鈴木礼治さん(1983-1999愛知県知事)が、自治省から愛知県に来られ私の上司として課長になられ1年、一緒に仕事をさせてもらいました。ちょうどその時、国連のワイズマン国連調査団が来て東海と北陸を結ぶ自動車道の提言を行いました。
昭和40年の人事移動のころ鈴木課長に呼ばれ、大変なことになった副知事(松尾信資さん-1963年~1970年在任)が私を秘書にほしいといっているとの話でした。私は秘書には向いていないと固辞して鈴木課長に辞退の意を伝えてほしいと伝え、課長も同意見だったので、副知事のところに行ってもらいました。課長が帰ると「敵は強硬だ、俺が秘書にするといっているのに余分な口出しはするな」と言われたとのこと、断るなら私に言って来いと伝えられ、自分で副知事のところへ行きました。副知事は、「心配するな、俺と2年つきあえ。その代わり、俺の勉強の仲間だぞ!しっかり勉強してくれ」と言われて、いろんなことを教えていただきました。

田中角栄氏との思い出

その中で思い出深いのは、田中角栄さんとの出会いです。松尾信資(のぶすけ)さんは、新潟県の魚沼の人で角栄さんの選挙区、松尾さんも農林学校から高等文官試験を受けて役人になったという苦労人、田中角栄さんも小学校出ただけの学歴。確か、中部圏の法律を作る仕事と東海北陸自動車道の法律を作る関係で田中角栄さんのもとを訪れました。
普段、私は宴席には出ないんですが、なにせ角栄さんは、オールドパー1本空けなければ宴会が終わらない という人なので、酒のみ係りのつもりで副知事に同行しました。角栄さんは「僕は、高等小学校しか出ていないが、29歳で国会議員になり国会大学に入った、39歳で郵政大臣になった。これは大学院を卒業したようなものだ。東大出の局長や課長と互角に渡り合うため物凄く勉強した。」とおっしゃっていました。
物事を成すためには、人が必要であり、誰がその仕事に必要で適任かを見つけ、一緒に仕事にあたる 事が必要だと教わりました。「法律を作るにあたっても僕一人では出来ない、野党の人にも頼まなければいけない。春日一幸さん( 衆議院議員 民社党委員長)のところにも行け。」との助言を受けました。若いうちから、そのような人脈を築き上げることの重要性を教えられ、中部圏と東海北陸自動車道の仕事もうまくゆきました。

人物紹介

松尾信資(まつお のぶすけ)

明治39年(1906)、新潟県生まれ
新潟県立加茂農林学校卒業
昭和7年(1932)新潟県立高田中学教諭
昭和14年(1939)高等試験行政科に合格
昭和15年(1940)内務省入省
昭和22年(1940)愛知県勤務
昭和38年(1963)~昭和45年(1970)愛知県副知事

田中角栄

大正7年(1918)、新潟県生まれ
高等小学校卒業後上京、建築業を経営
昭和22年(1947)、衆議院議員に出馬し当選。以後当選回数16回を数える
郵政大臣、大蔵大臣、自民党の要職を歴任後、昭和47年(1972)首相に就任
日中国交を正常化などを行ったが、昭和49年(1974)金脈問題で退陣
。 尋常高等小学校卒の「たたき上げ」が売り物で、官僚たちを惹きつけた。

春日一幸

明治43年(1910)岐阜県生まれ。
昭和27年(1952)、衆議院選挙に社会党から出馬当選。14期にわたり衆議院議員を務める
昭和35年(1960)、民主社会党の結成に参加
田中角栄(当時の幹事長)と連携して、新自民のスタンスをとった
昭和46年(1971)、民社党委員長に就任。昭和52年(1977)まで務めた

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