山の神
街の中に「山の神」が祀られている。水神や石神と同じように素朴な原始的な民俗信仰の形態が名古屋の中心部に残っている。そのことにわくわくするような興奮を覚える。
神社は戦災にあった名残を濃厚に残している。散乱した礎石を集めて拝殿の石組みがなされている。その石組みの中に、何か微かに字が刻んである丸石を見付けた。何が書いてあるのだろうといぶかしく思いながら読んでみると「常盤丁角井筒」と読める。そうだ。大須通りの向こうには旭廊があったのだ。思いがけなくも見付けた山神社の石柱の文字によって、この地が辿った歴史に思いが至った。
丹念に石柱を調べてみると遊廓の名前を記した石柱が幾つかある。中には仲居たちの寄進した石柱もある。曲馬団の寄進した石柱もある。
山神社と呼ぶからには、白山神社のある鴬谷を隔てて、小高い丘の上にある小祠であっただろう。夜ともなれば人々があまり近づかないような怖い場所であったに違いない。それが明治時代に入り、近くに遊廓が出来ると遊女たちの信仰を集めたのであろうか。
山神社の境内に「百度石」がある。これは遊女が薄幸の境遇を抜け出ようとして、お百度参りをした所であろうか。あるいは想う人と添い遂げることを願ってお参りした所であろうか。 一つの神社に佇むだけでも、その地の歴史を辿ることができる。さまざまな思いに人をかりたたせる。
柳田国男は『山の神とヲコゼ』(柳田国男全集7)の中に各地の山の神に関することを採録している。
名古屋の西脇町(中区)の山神社は、郡部の方にも信心家が多くて、此処に祈願さへ掛ければ、どんなに重い頑癬(タムシ)でも直ぐに癒るさうな。七日なり十日なりヲコゼを絶ち物として、願をかけ、後でヲコゼの絵馬を上げる。中にはほんものの虎魚を上げるものもあるといふ。此の社の参詣は夜に限ると謂ひ、又山の神は聾だと謂ふので、神扉を叩いて祈願することが流行したこともあった。
とこの地の山の神のことを報告している。
山の神と海の魚のおこぜとの取り合わせが、いかにも面白い。柳田国男によると「山の神ぢゃと云はれる人の妻になりますこのおこぜ」という民謡が岡山県の吉備地方に伝わっているという。また鳥取県の因幡地方には「ヲコゼは山の神の女神の名前だ」と言われているそうだ。
この地に住んで八十三年という古老は「山神社は霊験あらたかで、田虫にかかると直ぐ直るというので、遠くからも沢山の人の参詣がありました。私の家の前が谷口という社守の家で、そこにおこぜの絵馬が飾ってありました。本物のおこぜを持ってくる人もいましたよ。終戦直後には田虫につけると直るという霊水が枯れてしまって、私の家の井戸水を山神社に運びました。」
田虫も今は市販の薬で治る。訪れる人が少なくなると共に神社も衰微していく。今は日置神社の末社となっている。 山神社の木のたたりを書いた文章があったはずだ。家に帰り朝日重章の『鸚鵡籠中記』を読んでいて、正徳四年五月五日の記述の中に見付けることができた。
日置村山の神の神木大榎の穴え、嶋鴨の巣をさがすとて、所の百姓の子十二三歳ばかりなりしが、つれの子に麦がらを踏えさせ、其者の肩え上り、巣を捜しける間に、下なる子、ふまへし麦がらすべりて落ると、上なる子は穴に手を指入ながら、中にぶらりと懸り居り、何とすれども此手ぬけずて、泣出し叫ぶ。何者か申出したりけん、大榎から蠎蛇が出て、少き子を呑とて、御園堀川は勿論、広井辺迄聞伝へて奔波す。晩に及び大工を呼、手の際をほりて、漸ぬきたれども、久敷物はくはず、手は腫れ目などまわしたりと。 古へより此木に祟り多くありと。先年も枝切て乱心となるものあり。三年斗前に枝伐し男、大晦日に此木にて首くくり死す。
江戸の昔より、この神社の木を伐るとたたりがあったのだ。山の神は祟りをもたらす神だ。女房のことを「山の神」というが、私などは、いつも祟られてばかりいる。山の神は、やはり恐ろしい。
地図
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