旧三井銀行名古屋支店
近代的なビルが建ち並ぶ広小路通りに、ひときわ異彩を放つビルがある。六本の古代ギリシャの趣きをたたえた円柱が並ぶ、旧三井銀行名古屋支店の建物だ。この建物は、地上二階でありながら、周囲の高層ビルに比していささかの遜色もなく、強い存在感をうちだしている。 中央の六本の円柱はイオニア式とよばれる様式でできている。
イオニア式はギリシャのイオニアの地から起った様式で、柱に礎盤があり、曲線状の渦形を持つ柱頭に特色がある。両端には壁面を配し、ファサード(建物の正面)は花崗岩で仕上っている。優美で壮麗な感じをかもし出しているこのビルは、昭和十年(一九三五)に建てられたものだ。設計は曽禰中條建築事務所、施工は竹中工務店だ。
三井銀行が名古屋に進出してきたのは、為換座三井組時代の明治五年である。この時伝馬町に建てられた黒い土蔵造りの堅牢な建物は、宮戸松斎の『尾張名所図絵』の中にも描かれている。 伝馬町から広小路に三井銀行が移転してきたのは、大正四年六月である。
三井銀行名古屋支店長の矢田績は、新しい時代の銀行業務は広小路が最も適していると考え、しぶる東京本店を強引に説得し、移転を成功させた人物だ。大正四年、広小路に新しい建物がお目見えした時は、すでに彼は本店の調査役として名古屋を離れた後であった。いわば三井銀行支店の新築は、矢田績の名古屋への置き土産であった。この時完成したビルは建築費約二十五万円、近代フランス・ルネサンス式の豪壮なビルであった。
大正十一年、矢田績は三井を辞めて、無位無官の一介の老人として、名古屋へもどってきた。撞木町に居を構えた績のもとを多くの人々が訪れ、彼の話に耳を傾けた。 大正十四年、績は私財二十五万円で武平町に公衆図書館を設立した。さらに、二十万円で図書を追加し名古屋市に寄付する。 銀行の支店長として、多額の金を運用していた績は、金が生き物であることを身をもって知っていたであろう。金は人を助け、人を殺す。金のもっとも有効な使用法として、図書館を造り、蔵書とともに名古屋市に寄付する。績の志は、今も図書館に通う人々のなかに生きている。
歴史的遺産の建物が、一つ、二つと広小路から姿を消してゆくなかで、旧三井銀行名古屋支店は、昭和十年再建された当時のままの姿で、今も勇姿を誇っている。時代の趨勢のなか、二階建ての狭い建物では、銀行業務の拡大や変化に対応することはできなくなってきた。昭和四十年、銀行はこの建物をこわすことなく、背後に地上六階、地下二階の新館を増築することにより、この問題を解決した。
私財で図書館を開設することも、歴史的遺産を後世まで残すことも、経営を度外視した志の問題だ。績が広小路に移転させた銀行が今も残っているのは、績の志が後輩の銀行員のなかに生きているからであろう。高い見識によって残された旧三井銀行名古屋支店の建物は、誇らしげに往時のままの姿で建っている。