別れの涙でぬらした小袖
テレビ塔の下、公園の樹木のあいだに、一本の高札が立っている。高札には、この地に古くから、小袖塚と呼ばれている一つの小さな塚があったということが記されている。 『金鱗九十九之塵』は、小袖塚の由来を、次のように記している。
この小袖掛松の由来を尋ねてみると、昔、治承年間〔一一七七~一一八〇〕のことだ。都から身分の高い人が、どのような理由があったのであろうか、当国の愛知郡井戸田の庄〔瑞穂区〕に配流された。そのとき、前津小林の里からひとりの女が、その方の世話をするために、側近く仕えていた。その方は、まもなく都に呼びもどされた。その女は、別れを惜しみ悲しみに耐えかね、この松の枝に小袖を脱いで掛け、松の木の下を流れている川に身を投げてしまった。 土地の人たちは、彼女の死をたいそう気の毒に思い、亡骸を取りあげ、ここに葬った。しるしの塚を築いて、小袖を松に掛けて供養した。
小袖掛松についての考察を朝岡宇朝著『袂草』はいくつか紹介している。
樋口又兵衛が言うことには、この松は太政大臣藤原師長卿から、別れにさいし白菊の琵琶をいただいた女が小袖を掛けた松であるという。白菊の琵琶は、いったん琵琶嶋に埋められた。だから琵琶嶋という地名がつけられたのである。その後、琵琶を掘り出したということなので、きっと尾張家に残っているだろうというお尋ねが昔あったが、結局わからなかった。撥の面に白菊が描いてあるので、この名がある。 高力猿猴庵が言うことには、この松は鍛冶屋町、袋町、本重町〔ともに中区錦〕の間の東側の裏にある。主人があまりにもこの松をだいじにして、はさみを入れすぎてしまったので枯れてしまったということである。 土屋恕有は、大津町〔中区丸の内〕をさがって東側の町家の裏に、大樹があった、これが小袖掛松であるという。先年、山本銅伝がここに隠居していたので、茶を習いにいって見たといっている。 稲留平左衛門は、この琵琶は先年荻野検校にさげ渡され、修復したのち平家琵琶になって今は熱田にあるという。
平安時代、井戸田の地で配所〔流罪の地〕の月を眺めていた藤原師長にまつわる伝承の一つが小袖掛松である。 現代では、ロマンとしてしか受けとられていない伝説を、江戸時代の知識人たちは、史実として受けとめ探索していた様子が『袂草』からよくうかがえる。 師長は、琵琶の名手であった。名手の師長が名器の白菊をたずさえ、熱田の社に参拝し、その社前で秘曲を演奏した。『平家物語』によると、妙なる調べに老いも若きも涙を流して、演奏に聞き入った。熱田の神も感応にたえきれず宝殿がゆれ動いたという。