木曽川と新村湊
太田の渡しで木曽川を渡り、可児市内の今渡、中恵土を過ぎ、上恵土まで来て 御嵩町に入る。上恵土の交差点の北西角に中山道と犬山街道追分碑が建てられて いる。追分から100m程いった左手に槍ヶ岳の登山道を開いたことで知られる播隆上人 の碑がある。ここから450mほどで中山道と兼山追分前に来る。北東角に 中山道・兼山追分碑が建つ一角には休息場が設けられている。
ここで寄り道して兼山方面に向かう。追分から北に兼山道を700m程行った、 木曽川沿いに新村湊跡がある。新村湊は、木曽川を上下する川船の発着場として 利用された。 ここで陸揚げされた品は、東濃を経て、木曾方面へ運ばれた。 中山道の商品はここから船送されたため、太田宿から赤坂宿までの荷物が少なくなり、 川船を止める願いも出されたと言われている。対岸(八百津町)には 木曽川を、舟、筏、で上り下りする木材、日用雑貨等の検査 および禁制品の取締りも行っていた御番所跡碑が建てられている。
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伏見宿付近の史跡 兼山城址
新村湊からさらに木曽川上流方向へ行った兼山ダムの付近の山の山頂に兼山城(可児市)が 木曽川を見下ろすように置かれていた。
兼山城は、天文6年(1537年)、斉藤道三の養子斉藤正義により築城されたと言われいる。 その後、土岐氏の配下に置かれたが、永禄八年(1565年)の織田信長の美濃に侵攻で 信長家臣の森可成が城主となり東美濃制圧の拠点とした。
可成の死後、次男長可が継ぎ天正10年(1582年)、武田氏滅亡後、信濃善光寺平 20万石を与えらたが、同年、「本能寺の変」で信長が死去すると政情不安な 信濃を離れ、旧領である兼山城に帰還した。
長可は、「小牧・長久手の戦」では豊臣秀吉に味方して戦死、家督は長可の弟 忠政が継いだが、「関が原の戦」ののち移封のため廃城となった。 現在は、公園整備され、「蘭丸ふる里の森」となっている。
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伏見宿
伏見宿は、人口 485人、家数 82軒、本陣 1軒、脇本陣 1軒、旅籠 29軒の小さな宿場。 木曽川の流れの変化などにより、渡し場の位置が上流へ移動され、 それまでの土田宿は廃宿となり、元禄7年(1694)上流に位置する場所に誕生した。
中山道・兼山追分を300mほど南に下ったところに臨済宗妙心寺派の洞興寺があり その境内に、安産子育ての守護神の子安観音と女郎塚がある。 元禄七年(1694)太田宿と御嵩宿の中間地、伏見に宿場が新設され、多くの旅人相手の 飯盛り女が働くようになった。そのなかには、身寄りのない女子も多く 女郎塚に葬られた。塚の上には、数多くの石仏が祀られている。 また、洞興寺から200mほど東にある東寺山古墳には、東西に並んで2基の大形古墳がある。 東側の1基は前方後円墳、西側の1基は前方後方墳である。
ふたたび中山道・兼山追分に戻り、中山道を東に130mほど進んだ右手、伏見公民館の 前に伏見本陣跡の碑と領界石(美濃国・尾張国)が建てられている。 道路を挟んで反対側にあったといわれる本陣は、門構えと玄関がある建坪120坪で、 岡田与治右衛門が勤めていた。脇本陣は岡田与兵衛が務め、建坪60坪の 建物であったといわれている。
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中山道伏見宿案内図
伏見宿から御嵩宿へ
宿を出て約1.2kmほど進むと比衣の一里塚跡碑が立っている。
一里塚跡碑から300m程行った中山道を名鉄広見線の願戸駅方面に曲がり、南に下って 広見線の踏み切りを越えたところに在原業平の碑は建てられている。 在原行平は、弘仁九年(818) 平城天皇の孫として生まれた。 行政官として貴族の子弟の教育の場、奨学館を創設するなど教育にも力を注いだ。 また「古今集」「後撰集」などに多くの歌を残す歌人としても知られている。 行平の墓所は、諸説がありこの地もその一つにあげられている。
また中山道の北側の田園の中に、顔戸城址がある。 応仁の乱(1467~77)の頃、中央政権をも揺るがすと云われた武将 斉藤妙椿が築城し、 東美濃の守りの拠点とした城だ。豪壮な中世平城の遺構を今にとどめている。 顔戸から650m程行くと御嵩宿に入る。
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