連載
-
2012年6月22日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第9回「光音寺」
黄雲山光音寺は曹洞宗の古寺である。江戸時代は大須の万松寺の末寺であったと伝えられている。庭の中に名古屋市の指定文化財である無縫塔がある。歴代住職の墓塔である。細長い塔身は鎌倉時代の作で、やや不均整な印象を与える。中台は小型で厚みが...
-
2012年6月15日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第8回「揚り戸古墓地」
尾州山田庄志賀郷と記されている安栄寺の六地蔵は、もともとはこの揚り戸の古墓地に昭和の初期まであったものである。揚り戸とは、小船などによって、物資を積みおろしする地のことである。志賀公園の東一帯は、かつて揚り戸と呼ばれ、船から荷揚げ...
-
2012年6月8日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第7回「平手政秀宅址」
志賀公園の中に平手政秀を顕彰する碑が建っている。享和二年(一八〇二)に建立されたものだ。漢文で刻まれた文を書き下し文に直せば「人誰か死に至らざる。或は鴻毛より軽く、或は泰山より重し。其の重きや之に處するに有り、其の軽きや之を決する...
-
2012年6月1日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第6回「志賀公園遺跡」
昭和五年(一九三〇)、西志賀土地区画整理組合が平手政秀を顕彰するための公園を造成した。地下を掘りすすんでゆくと土師器、須恵器、山茶碗等が出てきた。小栗鉄次郎、吉田富夫氏らの調査によって、弥生時代前期の東限の貴重な遺跡であることが判...
-
2012年5月25日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第5回「綿神社」
綿神社は延長五年(九二七)醍醐天皇の命によって調査され、国の神社として指定された『延喜式』の神名帳にも載っている由緒ある神社である。『尾張名所図絵』には、綿は海の仮字で、昔はこの辺まで入海であったと記されている。 綿神社の綿...
-
2012年5月18日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第4回「四十八祖社」
北区郷土史研究会の刊行した『田幡志』に、次のような記述がある。 昔志賀村の城主平手中務太輔政秀諌死の後、其息某勘気をこうむれることありて、久しく赦免なかりしが、其臣某等度度赦免を請へども不赦ければ今は力尽き、四十八人自殺して...
-
2012年5月11日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第3回「霊源寺」
曹渓山霊源寺は曹洞宗の古い歴史のある寺である。元は千種区古井の光正院の末寺で、始め万亀山大福寺と称していたが宝暦十年(一七六〇)今の寺号に改められた。霊源寺の墓の中には林立している墓碑を見下ろすようなかたちで、二基の墓碑が立ってい...
-
2012年5月4日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第2回「東高寺」
曹洞宗、東高寺は元亀二年(一五七一)の創建である。本尊の薬師如来は、病難救済と安産加護の仏様として崇拝をうけている。聖徳太子が彫刻をされたものといわれている。薬師如来は、近江の国、志賀の里に安置されていて、かの地の人々の厚い信仰を...
-
2012年4月27日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第1回「林泉寺」
田幡城の跡地(金城小学校、校門の側に林泉寺跡の碑がある)に、熱田の田中の地にあった永泉寺が移転してきたのは、享保十二年(一七二七)のことである。田幡城の跡地は、原田佐忠の別荘地であったが、彼の熱心な勧請によって、裁判までも起こして...
-
2012年4月20日
沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第7講 下飯田の昔 第6回「清蓮寺」
一本の道を隔てて、下飯田の町は様相を一変させる。道路の北側には高層建築がそびえている。南側には自動車が通ることができないような路地をはさんで、昔ながらの家並みが続いている。道の北側の地には、明治から大正にかけて田園地帯を埋めたてて...