沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第3回「霊源寺」

霊源寺

綿神社(左)と霊源寺(右)の参道

綿神社(左)と霊源寺(右)の参道

曹渓山霊源寺は曹洞宗の古い歴史のある寺である。元は千種区古井の光正院の末寺で、始め万亀山大福寺と称していたが宝暦十年(一七六〇)今の寺号に改められた。霊源寺の墓の中には林立している墓碑を見下ろすようなかたちで、二基の墓碑が立っている。

一基は、曹渓円成居士と刻まれた墓碑。曹渓円成居士は、この寺を開いた穀物問屋鵜飼屋の六代目服部重光のこと。宝暦十三年(一七六三)の歿。もう一基は、その妻の霊源妙誓法尼の墓。宝暦六年(一七五六)の歿。大福寺という名前から霊源寺という名前に寺号が変わったのは、鵜飼屋のなみなみならぬ帰依があったからであろう。荒廃した寺を鵜飼屋は独力で再建したかも知れない。山号曹渓と寺号霊源が用いられていることによって、鵜飼屋夫婦とこの寺との深いかかわりが感じられる。

昭和二十年五月十四日の戦火により本堂も、山門もすべて烏有に帰してしまった。唯一、戦火をまぬがれたのが山門前に立っていた「不許葷酒入山門」の碑である。戦火にあったのは、本堂や山門ばかりではなく、胎内にも小さな仏体を蔵している御腹籠(みごもり)観音と称せられた本尊も焼失してしまった。また、伝説の大黒天も焼失をした。

大黒天の伝説を『金城の遺蹟・史話』(三谷政明著)は、次のように記している。

明治中期、阿部小兵衛なる篤信家が大黒天の霊夢に感じ、霊源寺内に大黒天秘在せらるる旨告げ、よって寺内境内隈なく探し遂に山門棟木辺の一隅に密かに鎮座されていたのを発見した。即ち大黒殿を建立して祀り毎年節分会を行う様になった。大黒様の福にあやかろうと参会の善男善女は八百名程にのぼる盛況である。

霊源寺 愛知県名古屋市北区元志賀町2丁目127

霊源寺 愛知県名古屋市北区元志賀町2丁目127

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