平手政秀宅址
志賀公園の中に平手政秀を顕彰する碑が建っている。享和二年(一八〇二)に建立されたものだ。漢文で刻まれた文を書き下し文に直せば「人誰か死に至らざる。或は鴻毛より軽く、或は泰山より重し。其の重きや之に處するに有り、其の軽きや之を決するに有り。」という文で始まっている。続いて、織田信長と平手政秀の関係を次のように述べている。
初め織田公立つや年少くして行をほしいままにす。中務君しばしばこれを諌むれ共聴かず。最後に書を以て切諌し退きて自殺す。
若き日の織田信長は自由奔放で、うつけ者と呼ばれていた。信長の守役の平手政秀は何度も注意をするけれども、いっこうに聞き入れる様子はない。最後には諌書をしたためて自殺をしてしまった。政秀の死に直面し、さすがの信長も後悔し、行動を改めたという。
公既に厚く君を葬る。又一寺を建て名づくるに其の諱を以て之をあらわすと云ふ。
前非を悔いた信長は、政秀の本名をとって政秀寺と名づけた寺を建立し、厚く葬った。その寺は今も中区に静かなたたずまいで立っている。
平手政秀の居城が現在の志賀公園の地にあり、現在の志賀町一帯がその領地であった。綿神社には政秀が奉納した鏡(太平洋戦争で焼失)のほか、政秀の死後に信長が追悼のために寄進した槍も納められている。政秀と志賀の地とのかかわりをしめすものだ。
地図
より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 を表示