沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第8講 志賀の里 第1回「林泉寺」

林泉寺

林泉寺. 愛知県名古屋市北区田幡2丁目4-14

林泉寺. 愛知県名古屋市北区田幡2丁目4-14

田幡城の跡地(金城小学校、校門の側に林泉寺跡の碑がある)に、熱田の田中の地にあった永泉寺が移転してきたのは、享保十二年(一七二七)のことである。田幡城の跡地は、原田佐忠の別荘地であったが、彼の熱心な勧請によって、裁判までも起こして寺はこの地に移ってきた。

原田佐忠は、越後の上杉家にゆかりのある人物であったろう。上杉謙信の肖像を本堂にかかげて、享保十三年(一七二八)、三月十三日、謙信公百五十回忌の法要を営んだ。謙信堂と土地の人から呼ばれていた永泉寺が林泉寺と寺号が変わったのは宝暦二年(一七五二)のことである。上杉謙信が幼少時に養育されていた寺が越後、春日山の林泉寺である。寺号も謙信にゆかりの深い名に変えたのである。

林泉寺と改号したのを機に宝暦三年(一七五三)には、寺に御真影があって、位牌がないのを歎いた久間十兵衛等の檀徒が、位牌をあらたに寺に収めた。これら謙信ゆかりの寺宝は、太平洋戦争の時に、すべて戦火にみまわれ烏有に帰してしまった。寺内には頓阿作の人磨の木像を祀った小祠もあったが、この堂も戦火に焼失してしまった。

安政二年(一八五五)、猪子石村月心寺の隠居拈華坊が、林泉寺から人丸明神防火の守護札を発行した。その時に、彼が詠んだ歌、

焼亡は柿の本まで来るとも
あかしといゑはすくに人まる

播磨の国明石の地に人丸神社がある。人丸神社は火防せの神様だ。人丸は、火止(ひとま)るとよめるからだ。万葉の歌人、柿本人麻呂をもじり、たとえ火が柿の木の所まできても、「明石」といえば、すぐに火は止まるという意の歌だ。

 

林泉寺. 愛知県名古屋市北区田幡2丁目4-14

林泉寺. 愛知県名古屋市北区田幡2丁目4-14

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