制作状況

  • 2012年8月24日

    沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第2回「道標」

    五差路を越して十九号を走れば勝川、多治見に行くことができる。下街道と呼ばれていた道は、だいたいは現在の十九号に沿って通じていた道だ。 矢田から守山・瀬戸に通じている道が瀬戸街道だ。 瀬戸街道と下街道の分岐点に道しるべが...

  • 2012年8月20日

    映像制作講座 受講生募集のおしらせ

    映像作家 後藤幸一(Network2010事務局長)が映像制作のプロを目指す人材を養成します。 撮影・編集などの実技を中心に、実際の制作過程を体験・学習することができます。また、映像制作に使用する各種ソフトの使い方やノウハウを学...

  • 2012年8月17日

    沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 下街道大曽根界隈 第1回「中央線大曽根駅」

    明治三十三年(一九〇〇)中央線の多治見と名古屋間が開通した。それと同時に大曽根駅設置の運動が起こってきた。国鉄では大曽根駅を設置するにあたり、瀬戸と大曽根間に民間による鉄道設置を条件として出してきた。 明治三十八年(一九〇五...

  • 2012年8月17日

    尾張名所図会と美濃路「清洲宿」

    慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、四男の松平忠吉を尾張藩の当主として清須に派遣し尾張の藩都とした。 松平忠吉は若くして世を去り、家康は九男の甲府藩主 徳川義直を尾張藩主として任命し清須に送った。 清須は五条川...

  • 2012年8月16日

    尾張名所図会と碁盤割「伝馬会所(本町通・美濃路)」

    碁盤割とは、徳川家康によって東西は久屋通から堀川、 南北は広小路から外堀通にいたる区域を京の碁盤割にならい 碁盤の目に区画された地域を指す。 家康は、ここを町人の住居とした。区画の中心の空き地には 寺院を配し住民の監視に当たらせた...

  • 2012年8月15日

    尾張名所図会と美濃路「南寺町」

    徳川家康は名古屋城下を防備するため 西、南、東に寺町を建設した。 堀切筋(のちの広小路)の南から橘町にいたる本町通(美濃路)沿いに 大小の寺院が建設され南からの敵の侵入に備えた。 現在の白川公園周辺には中小の寺院が密集して寺院群を...

  • 2012年8月15日

    尾張名所図会と美濃路「熱田宿から南寺町へ」

    美濃路の起点は名古屋市熱田区伝馬1丁目、東海道と分岐する追分に始まる。 東海道はここで南東方向に直角に折れ、七里の渡し場(神戸方面)に向かい、美濃路は北西方向に曲がり熱田神宮に至り名古屋城下へと続く。この追分の正面には、戦後まで上...

  • 2012年8月15日

    尾張名所図会「佐屋街道 佐屋渡し 津島追分 万場の渡し」

    佐屋街道は、宮宿と桑名宿を結ぶ東海道の脇往還として明治時代初頭まで 非常に賑わった。 岩塚、万場、神守、そして佐屋宿と四つの宿場を経て佐屋「三里の渡し」で 佐屋川を下り桑名宿へといたる。 佐屋川は江戸時代中期より土砂の堆積が進み、...

  • 2012年8月10日

    沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第9講 下街道の山田庄 第6回「長母寺」

    山田重忠は、父母と兄を供養するために三つの寺を守山に建てた。 治承三年(一一七九)母親を供養するために創建した寺が長母寺である。父親のために建てた寺は長父寺で、現在は名前を変えて大永寺となっている。兄のために建てた寺の長兄寺...

  • 2012年8月9日

    尾張名所図会「法界門橋と萱津神社」

    日本武尊が東征の帰途,萱津に立ち寄り、里人の出した「塩つけもの」を食べ 大変喜ばれたと伝えられている。 「塩つけもの」は、海水から作った塩と野菜を神前の瓶に入れたもので、 漬物の起源と言われている。 萱津神社は漬物の神様と...