中央線大曽根駅
明治三十三年(一九〇〇)中央線の多治見と名古屋間が開通した。それと同時に大曽根駅設置の運動が起こってきた。国鉄では大曽根駅を設置するにあたり、瀬戸と大曽根間に民間による鉄道設置を条件として出してきた。
明治三十八年(一九〇五)、瀬戸と矢田間が開通し、さらに翌年には大曽根、矢田間が開通した。 中央線の大曽根駅は明治四十四年(一九一一)に開業した。大曽根まで通じた瀬戸電は、その年の十月に堀川までつながった。
大曽根駅の南口に、第二次世界大戦で殉職した大曽根駅の駅員三十人の慰霊碑が建立されている。 昭和二十年(一九四五)四月七日、十一時、米軍B29飛行機百六十機は、大曽根駅の南の三菱発動機等に爆弾を投下した。大曽根駅も全壊した。防空壕に避難していた駅員三十七人中三十人が、爆弾の直撃をうけて死亡した。
爆撃の直前、プラットホームには百人の乗客がいた。
助役のとっさの判断で、乗客百人を乗せて臨時列車が勝川にむけて出発した。
無事、列車は勝川に到着し、乗客は全員無事であったという。
地図
より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 を表示