慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、四男の松平忠吉を尾張藩の当主として清須に派遣し尾張の藩都とした。 松平忠吉は若くして世を去り、家康は九男の甲府藩主 徳川義直を尾張藩主として任命し清須に送った。 清須は五条川が流れ交易には最適だが、来るべき豊臣方との決戦をひかえた徳川家には、低湿地で水攻めに弱い清須は防衛には不適であった。 慶長15年(1610)より清須から名古屋台地の北端への遷府が行われた。世に言う「清須越し」である。 住民と寺社などをそっくり移転する「清須越し」により清須の町は荒廃した。清須の復活は後年、徳川家康によって美濃路の整備が行われ清須宿として 繁栄を取り戻すまで待たねばならない。清須総図は美濃路の清須宿として繁栄した様子を描いている。
地図(西枇杷島から新川へ)
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西枇杷島から新川へ
地図(新川から須ヶ口へ)
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新川から須ヶ口へ
地図(清洲宿)
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清洲宿
地図(稲葉宿へ)
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