アーカイブス

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「富士見原」

    東別院の東北に小高い丘があり、そこから東を見ると猿投山の左越しに富士山を望むことができたので富士見原 と呼ばれた。

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「東本願寺別院」

    東別院は1690年、尾張藩主徳川光友 より織田信長の父信秀の居城「古渡城」 の跡地1万坪の寄進を受けて建てられた 真宗大谷派の寺院。明治初期には博覧 会が開かれたり、名古屋場内から愛知 県庁が移転されたこともある。

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「西本願寺別院」

    浄土真宗本願寺派の寺院。東別院に対して西別院の名で呼ばれる事が多い。慶長14年(1609年)の「清須越し」で名古屋に移る。文化14年(1817)葛飾北斎が境内で、120畳敷きの達磨の大画を描き注目を集めたことが有名。明治6年(18...

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「七ッ寺境内」

    七ッ寺のある大須界隈は、特に七代目藩主宗春の時代に、芝居や寄席、見せ物などで にぎわった。宗春失脚の後、芝居、遊郭は禁止されたが見せ物は許可された。 参拝客は、七ッ寺の境内にある茶店で庭園を楽しみながら時を過ごした。

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「七ッ寺」

    天平七年(735)尾張国中島郡に行基によって創建されたと伝えられる。戦火や天災で荒廃したが、天正十九年(1591),清洲城下に再建された。その後、清洲越しによって現在地に移転された。境内には、二代藩主徳川光友により寄進され た三...

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「万松寺(織田信秀墓所)」

    織田信長の父信秀が雲興寺八世・大雲永瑞和尚を開山に迎え名古屋村(現在の中区錦と丸の内2丁目・3丁目あたり)に建立した曹洞宗の寺。信秀の葬儀の日,信長は抹香を仏前に投げつけ「大うつけ」と呼ばれた。慶長15年(1610)名古屋城下建設...

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「総見寺(織田信長墓所)」

    臨済宗妙心寺派の寺院。織田信長は本能寺の変で亡くなった。信長の次男信雄は、父の霊を弔うため伊勢国大島村にあった安国寺を清洲に移し総見寺と改名して再興した。「清州越し」により慶長15年(1610)名古屋に移転された。 門前町とは総...

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「清寿院(大須)」

    那古の山古墳(前方後円墳)の場所に修験道の寺院であった清寿院が建っていた。明治維新を迎え清寿院は廃寺となり、 その後市内で最初の浪越公園なった。明治四十二年(1909)鶴舞公園ができるまで市民に親しまれていた。

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「大須観音」

    正式名称は「北野山真福寺宝生院」、真言宗の寺院。元弘3年(1333)に現在の羽島市の大須郷に僧能信が創建したのが始まり。慶長17年(1612)に徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正茂によって現在地に移転した。『古事記』の最古写本をはじ...

  • 2011年12月5日

    江戸時代の名古屋城下「日置橋満開の桜」

    日置橋から北、数町にわたって堀川の両岸には数百本の桜が植えられ花見時になると多くの見物客でにぎわった。 名古屋城下を代表する景勝地であった。