七里の渡しは宮宿から桑名宿まで船で渡る東海道で唯一の海上路であった。その距離が七里であったことから七里の渡しとよばれた。満潮時には沿岸に浮かぶ島をぬうように、干潮のときは沖まで小舟で行き帆かけ舟に乗って旅をした。
天白川から笠寺観音へ
丹下町の常夜灯から約1.1km東海道を京に向かって進むと天白川、天白橋を渡ると星崎に入る。
江戸時代、星崎はすぐそばまで海が迫る浜辺。その浜辺に塩田をつくり塩作りが行われていた。ここで生産された塩は塩付街道を通じて各地に送られ塩付街道の途中にある御器所村は大根の産地であり、 星崎の塩を使って沢庵の生産がさかんであった。
笠寺観音の手前にある笠寺の一里塚は両塚のうち1つが残る名古屋で唯一の一里塚。笠寺観音は8世紀中頃に創建された真言宗の寺院。尾張四観音の一つとして名古屋城を鎮守した。
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笠寺観音から呼続へ
笠寺観音の参道を西北に進み名古屋鉄道の踏み切りを超えた所を右に曲がり、線路とほぼ平行に直進すると塩付街道と交差する。左手に曲がったところに富部神社と長楽寺がある。
富部神社は、徳川家康第4子で清洲城の城主だった松平忠吉の創建で、本殿は国の重要文化財に指定されている。
長楽寺は弘仁12年(821)に空海により創建されたと伝えられ文明年間(1470年頃)に義山禅師が曹洞宗の寺院として再興したという 。
東海道に戻り約600m進むと鎌倉街道と交差する。そこを左に曲がり、鎌倉街道に入ってを250mほど進んだ所にあるのが白毫寺。
白毫寺は年魚市潟(あゆちがた)と知多の浦を望む勝景の地とされており「年魚市潟勝景跡」の碑が建っている。年魚市潟とは熱田から鳴海の海岸の呼び名。年魚市潟の「あゆち」が「あいち」に転じ、愛知県の名前の由来となったとされている。
鎌倉街道との交差から約700m進むと山崎川にさしかかる。このあたりは呼続とよばれ宮宿に向かう旅人に、船の出発を呼びついだとことが地名の由来とされている。
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姥堂から宮宿へ
新堀川を渡り、名鉄常滑線のガードをくぐると、かつての精進川と東海道が交差する場所に姥堂、裁断橋跡の記念碑が建っている。
裁断橋は豊臣秀吉の小田原征伐に出陣し病死した堀尾金助の霊を弔うため金助の母が老朽化した橋の修築をおこなった。橋の擬宝珠(ぎぼし)には仮名で母が子を思う銘文が刻まれている。明治時代に河川改修により川筋が変わり大正末期には埋立られた。
対岸にあった姥堂は奪衣婆(だつえば)の座像を安置している。精進川を徒歩で渡ろうと溺死した僧侶の衣類を盗んだ貪欲な老婆が亡くなりその霊が夜になるとさまよったので縁者が供養のため像を安置したといわれている。
宮宿は熱田神宮のお膝元、本陣2、脇本陣1、旅籠248、家数2924軒、人口10342人の東海道でも最大規模を誇る宿場であった。伝馬町から神戸町にかけて本陣、脇本陣、問屋場、西浜御殿、船番所が建ち並んでおり、往来の人並みが途絶えなかった。
伝馬町を進んだ三叉路で名古屋城下へ向かう美濃路と七里の渡しへ向かう東海道に分岐する。その正面に知麻我神社(源太夫社)があった。現在、上知麻我神社は熱田神宮内に移転し、その場所にほうろく地蔵が奉られている。
現在の宮の渡し公園の海上には西浜御殿と対をなすように東浜御殿が沖合を埋め立てて建設され、大名をもてなす貴賓館として使用されていた。
江戸時代の熱田は全国有数の歓楽街で、神戸町には高級料亭が建ち並び船出を待つ貴人や名古屋城下豪商の遊興の場となっていた。
七里渡しは、宮宿と桑名宿を結ぶ、東海道唯一の海路。また木之免町には朝夕、魚市場が立ち名古屋城下に魚貝類を提供した。
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