二川宿本陣
本陣とは江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中、宿泊休憩した施設。 宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた堂々たる建物であった。 二川宿の本陣は、後藤五左衛門が中町の北側で勤めていましたが、再々の火災の ため没落し、 寛政五年(1793年)以降は紅林権左衛門に本陣職を譲った。 しかし、文化三年(1806年) 十二月の火災により紅林家も再起することができず、 文化四年(1807年)以後明治三年(1870年) の本陣廃止まで馬場彦十郎が現在地に おいて本陣を経営した。 馬場家本陣は、文化年間の間取図によると間口 17間半(約32m)、 敷地面積は525坪(約1,733平米)、建坪は181坪余(約598平米) と宿内一の建物であった。 (豊橋市教育委員会の案内板より)
白須賀宿から二川宿へ
二川宿周辺地図(黄線が東海道) 三河国最東端の宿場町である二川宿は、白須賀宿から約3km、 東海道五十三次中33番目の宿場で町並みは約1.3㎞、本陣と脇本陣各1軒、家数合わせて306軒、人数1,289の小規模な宿場であった。
東海道線を超え約200m二川宿の入口にある参道を100mほど行ったところに日蓮宗の妙泉寺がある。 境内には、芭蕉句碑「紫陽花塚」があり「あちさゐや藪を小庭の別坐敷」の俳句がきざまれている。
参道を東海道に戻り 西に約100m進むと,右側に商家の東駒屋が見える。江戸時代から味噌・たまり醤油を造り、現在でも赤味噌を製造販売している。
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二川宿本陣
東駒屋から150m街道をゆくと左手に二川宿本陣が見えて来る。 文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、現在は改修復元工事をされ、一般に公開されている。 主屋・玄関棟・書院棟・土蔵等などがあり大名や公家など貴人の宿舎の様子を現代に伝える。滋賀県草津市の草津宿本陣田中家(国指定史跡)と並び現存する本陣の遺構として貴重な文化財で、豊橋市が管理する。とくに書院棟 上段の間は、大名等の貴人が休泊する部屋で、本陣の中で最も重要な部分でもあった。
本陣の東隣に建つ旅籠屋「清明屋」は江戸時代の旅籠の様子を再現している。二川宿本陣の南裏手にある、二川宿本陣資料館は平成3年、二川宿ならびに近世の交通に関する資料を展示する資料館としてオープンした。
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岩屋観音
二川宿本陣を出てて約1.5km東海道を西に進むと火打ち坂が現れる。坂をのぼること約800m、宿場の西、二川宿を一望できる小高い山の山頂に岩屋観音が建つ。東海道を往来する旅人に広く親しまれ信仰された観音様であったといわれているが、残念ながら明和2年(1765)に建立された観音は、太平洋戦争で金属が不足したため軍に供出されなくなった。
戦後、地元の住民の熱意もあって昭和25年(1950)に 再建された。山の中腹には天平2年(730)行基によって開かれたと伝えられる岩屋観音堂が建っている。
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*記述にかんしては、豊橋市教育委員会制作の案内板を参考に記載しました。また、記述の訂正等に関しては、豊橋市二川宿本陣資料館のご協力を得て修整いたしました。