吉田城跡付近
吉田は鎌倉時代から、東海道の前身である鎌倉街道沿いの重要な町の1つ。戦国時代末期には東三河の戦略拠点の1つとして 今橋城(のちの吉田城)が築かれ、以後城下町として発展した。
戦国時代、徳川家康は今川義元の配下に置かれていた。しかし桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、今橋城を攻略し、配下の酒井忠次を城主にした。その後、豊臣秀吉によって徳川家康は関東に移封されたため、代わって池田輝政が15万石の城主として統治することになった。
輝政は今橋城の名称を吉田城に変え、吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行ったものの、完了を見届けることなく関ヶ原の戦いの後、徳川家康により播磨姫路に移封されてしまった。
以後城主は頻繁に入れ替わり、最終的には大河内松平家が幕末まで統治することになる。
明治時代に入ると富国強兵のもと、政府により取り壊され旧日本陸軍歩兵第18連隊が置かれた。現在公園となっている入口付近にある神明社は天下の奇祭「鬼祭り(国指定重要無形民俗文化財)」で知らている。また吉田城の西約300mの豊川沿岸に位置する吉田神社は、三河伝統手筒花火発祥の地として知られ毎年7月の祇園祭では手筒花火約300本、豊川河畔での打ち上げ花火約12,000本が奉納される。
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吉田宿
江戸時代、吉田宿の町並は約2.6kmの長さがあった。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠は65軒。人口は5,000人ほど。
吉田宿には、東西二箇所に惣門があり、東惣門は宿の東の入口にあり午前六時から午後10時まで開けられ、それ以外は閉門され、付近に番所などが置かれ警備にあたっていた。
東惣門を過ぎると曲尺手(かねんで)町の名のように曲がり角が多くなる。
曲尺手町をすぎると呉服町、札木町にはいる。道の両脇には、順に問屋場跡、本陣跡、脇本陣跡の碑が建つ。
菊宗はこの道の南側にあり、創業文政年間、江戸時代より約200年の老舗で、豊橋の郷土料理 菜めし田楽で有名。
菊宗を西に約250m進み 交差点を上伝馬町方面に右側に曲がり、さらに約230m国道23号線を超えた右側にあるのが西惣門。吉田宿の西のはずれだ。現在、こじんまりした西惣門のレプリカが建っている。
西惣門をでて約60m行き右に坂をのぼると賢養院があり、東背後には豊橋市役所が見えます。賢養院の境内には豊橋の俳人 木朶の墓が置かれている。
地図(東総門付近付近)
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地図(問屋場跡から西総門へ)
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豊川と豊橋
賢養院から約130m進むと豊川に当たり、左に川沿いを進むと現在の豊橋の豊川下流70mに、旧吉田大橋(旧豊橋)の跡の碑が現れる。
鎌倉時代に豊川に架けられた橋で、当時は今橋と呼ばれ、江戸時代になって吉田橋と改名、明治時代になると豊橋と改称され、昭和に入って豊川上流70mのところに移された。
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*記述にかんしては、豊橋市教育委員会制作の案内板を参考に記載しました。また、記述の訂正等に関しては、豊橋市二川宿本陣資料館のご協力を得て修整いたしました。