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三重県の歴史街道 伊勢別街道の概要
関宿東追分で東海道と分岐し、現在の津市芸濃町を通って南下、津の江戸橋で 伊勢街道と合流するこの街道は、江戸時代には「いせみち」 「参宮道」 「山田道」 などと記され、 「伊勢別街道」の名が使われるようになったのは、明治10年以降で あると思われる。
伊勢別街道の名は、四日市日永追分から伊勢にいたる伊勢街道の支道の意味で、街道の 総距離はおよそ四里二六町。途中、楠原、椋本、窪田に宿場が設けられ、江戸時代には 京都方面からの参宮客で賑わった。
椋本宿には、約20軒の旅籠があり、現在でも各地の参宮講の講社札を掲げた旅宿も存在する。 また、宿場の常としてたびたび大火に見舞われたため、街道を故意に屈曲させて防火の便を はかっている。
窪田宿においては30軒を越える家が近年まで屋号を持ち、昔は宿屋であったと言い 伝えられている。
3つの宿場以外の沿道では、茶屋などの施設が発達し、大古曽村の森などでは 「茶屋町」の名が付けられ、何軒かの茶屋が軒を連ねていたとされる。
また、日本の政治の中心が大和にあった頃には、大和から伊賀を通って伊勢にいたる 主要ルートでもあった。そのころの街道は、関で東海道と分岐したあと鈴鹿川を渡り、 亀山市関町古厩から津市芸濃町椋本のあたりから安濃川に沿って南下するコースで、 現在のように志登茂川に沿って豊久野を通るコースは、室町時代以降のことである。
このことは、応永25年(1418)、将軍足利義持に随従した花山院長親の『耕雲紀行』 の中に、 「とよく野二里はかり行はてて、くほたといふ里もすきて、うらちかくなる程…」 と記されていることから明らかである。その後、室町将軍伊勢参宮の標準的コースとなった。
将軍だけでなく、一般の参宮道者も通ったとされるこの街道には、参宮講社の寄進によって 作られた県内最大の常夜燈が現存し、往時を偲ばせる街道遺産となっている。
関宿(亀山市)
地図
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