左義長火事
藩主が東海道を参勤交代で江戸に上る時、家臣たちは、本町通りを広小路まで出て、ここで見送りをするのがしきたりであった。広小路通りは、碁盤割の町はずれの通りであり、名古屋の南の境をなす通りであった。
幅十五間(二十七メートル)という広い通りが出来たのは、万治三年(一六六〇)正月の大火後のことである。
『金府紀較抄』によれば、この火事によって、焼失した侍屋敷は百二十軒、町屋は二千六百二十八軒、寺院は三十であった。藩主よりは、高百石につき金十両と榑(くれ)木も百町の下賜があった。町内に対しては、榑木五万町、松木五万本、銀千貫目の下賜であった。この火事は、正月十四日、片端桑名町西角吉原助太夫の屋敷前で、午後二時頃に起った。左義長を燃す火が飛火して周囲をことごとく焼き尽くした。このことから左義長火事とも呼ばれている。この日は、とくに風が激しく吹き、火の粉があちら、こちらと飛び散っていて、被害を甚大にした。
『金府紀較抄』は「惜哉 名古屋栄て四十余年 国穏に民ゆたかなり 本町、七間町造り並し家屋共此時に至て焼失す」と、十四時間ほどの火炎地獄の中で、四十余年かかって、すばらしい町並ができあがった名古屋の町が灰塵に帰してしまったことを残念がっている。
十四日は、江戸でも本郷四丁目より午の刻〔昼十二時頃〕出火した。二里ほど先まで焼き尽くして、二十時間ほどたって、やっと消火することができた。この日は大坂でも、京都でも火事さわぎがあった。名古屋、江戸、京、大坂と大都市が同じ日に大火災にあう。これは偶然の一致ではなくて、付火が原因だとうわさが町中をかけめぐった。夜回りの足軽が厳重な警戒をした。昼夜とも鳶や熊手をもって辻番は、屋根の上に上って見張ったり、道ゆく不審者を呼びとめて取締りを強めた。「火の廻り御用心」とふれ歩く声は、ひっきりなしに町中に響いた。
こんな厳しい警戒をしているにもかかわらず二十六日の昼、長島町で付火があった。 焼け残った町人たちは、付火のうわさで商売もできなかった。店もしめて、道具をまとめ、幼い子どもを背中に負ったり、懐に抱いたり、いざ火事になったら、老人、病人の手を引いて逃げ出す準備をするほか、何も手がつかなかった。
火事はさまざまなドラマをうむ。さまざまな出来事をひき起す。『正事記』より、この火事によって起ったドラマを、ひろってみる。
年とった母親の世話をしながら日雇いの夜番をして生活をしている男がいた。火事だと聞いて、すべてをうちすて、母親を背負い、一目散に逃げ出した。碁盤割の町はずれまで来たので、もう大丈夫と母親を背中から下ろしたところ、それは母親ではなく、隣の家の老婆であった。 男は驚き、母親は焼け死んだであろうか、それとも人馬に踏み殺されたであろうか、とあわてて、泣きながら我家にかけもどった。
家は焼けず、母親が溝堀の中にころび落ち、起きあがることができずに、泣いているのを見つけた。母親を抱いて、隣の老婆を下ろしたところにもどった。男は「母親の生命が無事だったからいいですが、それにしてもよく何も言わずに背負われていましたね」と恨み顔で言った。
「わたしも不思議に思いましたよ。年老いたわたしを気の毒に思って助けて下さる、すばらしい方だと思いました。あなたの母上も無事だ。この上は腹を立てるのをおやめなさい。わたしは木石ではない。助けられたうれしさをどうして忘れるものですか。すこしはお礼をしたいものです。金子を少し持っているので、それを差しあげましょう。」
小判三両を取り出して、男に差しだした。思いがけない金が手に入り、男は火事の後、飢えることなく生活ができた。
名古屋まつりの代表的な山車は、七間町の弁慶車だ。この弁慶車が火事場どろぼうに盗まれるという出来事が起きた。
ある村の百姓、四、五人がかりで、七間町で長持一棹盗み出した。家に帰って中を見てみると、名古屋まつりの山車の橋弁慶であった。金にかえることもできない。何の役にもたたない。どうしようか、道路にすてようか、焼いてすてようか。いろいろ相談し、内緒で返すことにした。長持を釣り、盗んだ家に行き、渡そうとするが、受けつけてくれない。「これは自分のものと違い、御公儀の物である。内密にしてすますわけにはいかない」と町奉行に届けてしまった。町奉行は、盗人を、その村の庄屋に預け、後で厳しく詮議することにした。
長持を開けたところ、弁慶が、ぐっと眼を開いてにらみつける。火事場泥棒は腰を抜かさんばかりに驚いたことであろう。火事場泥棒では、唐櫃を盗んで家で開けたところ、中から位牌がたくさん出てきた。どうしようもないものを盗んできたといまいましく思い、急いで返した罰あたりな男もいた。
次の話は、火事となると居ても立ってもおれない。火事場に家のことをかえりみずにかけつける男の話だ。
杉の町通りに住んでいた男、火事と聞いてじっとしておれず、家の中の整理は女房にまかせて、火事を見に出かけた。火がしだいに、杉の町にも近づいてくる。家財道具を持ち出さなければと思って、あわてて家にもどった。女房、子どもはどこかに逃げ出し、家はひっそりとしている。古葛篭が二つあり、縄がかけてあった。重い方の篭を背負って片端通りに逃げた。火が消えた後で中を見てみると石臼がでてきた。 女房のしわざであった。
火事場から古鉄をひろい、それを売って豆腐屋を開いて成功した男がいる。知恵と才覚のある男は、不幸を成功へと転換することができる。
藩主から下賜された松の木は、志段味山から伐り出された。木は、筏にして、庄内川を江川まで流した。 壁土は、八事、末森、御器所、小幡などから、山の土砂、砂原の砂を日夜運んできた。 家普請の木やりの声、小歌の節が辻々から聞こえ碁盤割の町は、火事からの再建に立ち上がった。