パンといえばシキシマ
明治維新は、従来の価値観を根底から覆した時代である。衣食住のすべてにわたり、変革を強いられた時代でもある。旧来の慣習に浸り、変革を受け入れようとしない人々。それに対して、いちはやく西洋の流儀を取り入れ、時代の波に乗りおくれまいとする人々。二つの流れが拮抗し、せめぎあっていた。
日本人の主食は米だ。外国人はパンが主食だ。パンは長崎に遊学した医学の研修生等を通して、早くより知られていた。寛政七年(一七九五)刊行の『長崎見聞録』に「パンといへるものを出す。是は麦粉にて製したるものにて、よく脾胃を消和す、味ひ淡なり」という記事がある。当時は、パンを食べることのできたのは、ごく一部の人だ。パンを一般の人が食べることができるようになったのは、開化期からだ。
明治六年頃には、パン食が日本人の食生活の中に入ってきた。『馬鹿の番付』という開化の風潮を皮肉った番付がある。その大関には「米穀を喰はずしてパンを好む日本の人」があげられている。西洋かぶれして、米食からパン食に変えた人を苦々しく思う心情を強烈に表現したものだ。 明治七年三月に、名古屋にパンを製造販売する店が現れた。伝馬町五丁目の加藤定七の経営する清甜堂だ。
パン食が日本人の食生活の中に入ってくるとともに、パンを売る店が多くできてきた。それらの店の中から地域を代表する名店が生まれてくる。パンといえば木村屋とよばれた木村屋は、東京を代表する店だ。木村屋に匹敵する店が、大阪では○キだ。
名古屋で、木村屋、○キと肩を並べる店ができたのは、大正八年十二月のことだ。資本金三十万円で、東区長塀町に盛田善平が設立した敷島製パン株式会社である。
常滑市小鈴谷出身の善平は、叔父の中埜又左衛門の命を受けて、ビールを製造する会社、丸三麦酒株式会社(後のカブトビール)を明治二十九年に設立する。ビールの事業が軌道に乗り出すと、善平が次に手がけた仕事は製粉業だ。知多半島は、白木綿の織布事業が盛んな土地だ。綿糸のノリつけに用いるノリが不足していることに目をつけた善平は、ノリの元となるメリケン粉の製造に乗りだす。本居宣長に心酔していた善平は、
敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花
の歌より、屋号を敷島屋と名づけた。メリケン粉は、ノリ付け用として、うどん、きしめんの粉として需要は伸びる一方であった。
ビール、メリケン粉と、麦を材料とした事業で成功を収めた善平が、次に手がけた事業も麦を原料とするパンであった。
善平の目のつけ所は鋭い。大正三年、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦に、日本は参戦し、中国山東省、太平洋のドイツ領諸島等に軍隊を派遣した。名古屋からは、歩兵第六連隊第五中隊が中国の青島に出兵した。戦後、名古屋にドイツ軍の捕虜収容所が置かれ、五一九名の捕虜が収容された。収容所は大正三年十一月に東本願寺別院に開設された。翌年九月には東区新出来町の新設の収容所へ移される。
捕虜のなかには、特異な技能を持つものが多くいた。機械、電気、製麺、園芸、製粉、ペンキ等さまざまな分野における専門家が含まれていた。愛知県の実業家の間で、ドイツ人の技術、専門的知識を利用したいと考える人も多くいた。
盛田善平は、捕虜のなかに製パンの優秀な技術者がいるのを聞いた。さっそく、その捕虜に会った善平は、パン製造の事業に意欲をもった。この捕虜は、解放されてからも日本にとどまり、シキシマパンの増産と技術の改善につとめた。
名古屋でパンといえばシキシマと言われるほどになったのは、巧みな宣伝効果があったからだ。その陣頭にたちパンの美味なこと、経済的なこと、滋養に富むことの啓発に努めたのは支配人の田中元蔵であった。
彼は大正十年十一月、広小路通り本町西に中央宣伝部を設立した。翌年には広小路東新町角に第二宣伝部、さらに、その翌年には上前津に宣伝部を設けた。その後も、栄町の市電交差点近くに栄町宣伝部を設ける。 宣伝部は、パンを山積みにし、そこで客に試食をさせる。そして販売を行なった。
シキシマパンの直売店は、従来の商慣習を破る画期的なものであった。パンの卸値は、小売値段の七掛あるいは八掛であった。二割、三割が中間商人の利潤となる。シキシマの直売店は、客に他のパン屋のパンより二割、あるいは三割安い値段で売った。
安くて、味がよいと評判になれば客が殺到する。大正末期には直売店が名古屋市内だけで四十店を超えた。これらの直売店には、いずれも赤地に白ぬきでシキシマパンと横書きされた看板が掲げられていた。シキシマパンの広小路にある二つの直売店は、いつもたいへんな繁盛をしていた。そして、広小路の名物でもあった。
パンといえば木村屋は、新宿の店だけが有名で、直売店は他にはない。パンといえばシキシマの名古屋のシキシマパンは、町中いたる所に見られる看板と四十を超す直売店で、そのうまさが人々に知れわたっていった。