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脇本陣林家
起村は小村であったので、富田・東五城・西五城・小信中島の村々を加宿とし、 この起 五か村で伝馬役・人足役の宿役を負担した。 親村である起宿の天保12年(1841)の家数は230軒・1033人で、本陣・脇本陣各1軒のほか、 問屋が2軒、旅籠屋は22軒 あった。 将軍・朝鮮通信使・琉球使節・茶壷・象などのほか、多くの大名の通行でにぎわった。
富田の一里塚から起宿へ
西萩原を過ぎると国指定の遺跡に指定されている富田の一里塚の両塚が見える。
一里塚の先に、美濃路から斜め左手に道が分岐している。分岐点の真ん中に 駒塚道の道標が立っている。駒塚道は、尾張藩家老石河佐渡守が、領地の駒塚 (岐阜県羽島郡)から駒塚の渡しで木曽川を渡り、名古屋城へ 出仕するためつくった街道。道標には『左駒塚道 舩渡ヘ五丁 慶応三年』 と刻まれている。 道標を過ぎ右手に旧庄屋中嶋邸の塀が続く。
慶応元年(1865) 、長州征討の為、14代将軍徳川家茂は総勢18,000人の軍勢を 引きつれ京に向かう途中、起宿に宿泊した。幕閣の老中阿部豊後守は、この中嶋邸に 宿泊したという。
中嶋邸から約1キロの道を起宿へ向かう。
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起宿
起村は小村であったので、富田・東五城・西五城・小信中島の村々を加宿とし、 この起五か村で伝馬役・人足役の宿役を負担した。
親村である起宿の天保12年(1841)の家数は230軒、人口1033人、本陣・脇本陣各1軒、 問屋が2軒、旅籠屋は22軒の規模であった。 将軍・朝鮮通信使・琉球使節・茶壷・象などのほか、多くの大名の通行でにぎわったという。
起宿本陣は、加藤家が代々勤め「右衛門七」を名乗り、幕末まで世襲した。 天明五年(1785)の書上げによれば、 「間口二十四間半(約44m)・奥行五十四間(約97m)・ 家造建坪二百六坪(約680㎡)、外に高塀五十八間(約68.5mm)・門三箇所」と書かれている。 紀州徳川家、広島藩浅野家、徳島藩蜂須賀家、熊本藩細川家といった大藩も宿泊した。
問屋場も加藤家が兼務していた。その後、永田家も問屋場として増設された。
現在は、跡碑が立つのみだ。
その先左手にある脇本陣は林家が勤めていたが、明治二十四年(1891)の濃尾震災で倒壊し 建て直された。江戸時代の町屋建築の様式をよく伝えている。 江戸寄りの方に玄関入り口の潜り戸のついた大戸、正面一階の窓に取り付けられた 連子格子、土間境に建つ大黒柱、根太天井、立ちの低い二階など、幕末の起宿に 見られた町屋の造りを偲ぶことができる。
すぐ横の歴史民族資料館は、宿場町、織物の町尾西の歴史を「河戸のある町場」 「渡し場のある宿場」 「機音のする町で」 「伊吹おろしのもと土にまみれて」 の4つのテーマで紹介。街道筋の商家の店先の一部が再現されている。
館内に展示されている船橋の模型は、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した 橋を再現している。 将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝に際して、船橋河戸に船270艘以上を用いて 「船橋」がかけられ、江戸時代に18回も架設されたといわれる。
起渡船場には上(定渡船場)・中(宮河戸)・下(船橋河戸)の三ヶ所の渡し場があった。 宮河戸は、大藩の木曽川渡船など、金刀比羅社のある定渡船場だけでは 渡船が困難な時に使用された。 金比羅社の前には常夜灯と起渡船場跡の碑が建っている。
江戸時代の中頃、清国の商人から8代将軍徳川吉宗へ象が献上されることになり、 享保14年(1729)ベトナムから長崎へ上陸し、陸路江戸に向かった。 京都では、中御門天皇・霊元法皇が見物し、中山道~美濃路~東海道を経て江戸を 目指した。
揖斐川と境川では歩いて渡り、長良川では象船で渡ったが、見物人が騒いだので 象が暴走するという事故もあったそうだ。
木曽川ではおとなしく象船に乗り、無事渡り切りることができた。起宿本陣敷地内に象小屋が建てられ、一泊して次の宿泊予定地清洲宿に向かったという。象使いをはじめ 役人ら30数人が付き添う行列だったといわれている。
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常渡船場付近
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