広小路から名古屋宿へ
熱田から名古屋城にいたる本町通は名古屋を代表する基幹街道主だった商家が競って店を構えた。そのなかでも碁盤割の中を走る本町通は 名古屋城下の中心街として栄えた。
碁盤割とは、徳川家康によって東西は久屋通から堀川、南北は広小路から外堀通にいたる区域を京の碁盤割にならい碁盤の目に区画された地域を指す。
家康は、ここを町人の住居とした。区画の中心の空き地には寺院を配し住民の監視に当たらせた。名古屋人の質素、倹約、一方で盛んな生け花や茶道など内向きな文化は築城時の都市計画に起因するとも考えられる。
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碁盤割と本町通(美濃路)沿線の風景
美濃路名古屋宿
本町通を進み、現在の伝馬町本町交差点で美濃路と本町通は分岐する。
美濃路は伝馬町筋を西に清須へ向かい、本町通は北上し名古屋城へと通じる。現在の伝馬町本町交差点あたりは「札の辻」と呼ばれ名古屋宿の中心となっていた。本陣や脇本陣は置かれなかったが、高札場や荷物の運搬に必要な 人馬を継ぎ立てる伝馬会所が設けられた。またここは、木曽街道、下街道、岡崎街道、東海道、美濃路に分岐する交通の要衝であった。
伝馬町本町の交差点から約850m、伝馬橋を渡ってすぐの道を右に曲り堀川に沿って北に進む。
堀川は名古屋城建設とともに家康の命により、福島正則によって開削された運河で、熱田から名古屋城(建設当初は幅下、朝日橋まで)まで通じ、名古屋城下に物資を運ぶ重要な運河であった。
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美濃路名古屋宿
四間道
元禄13年(1700)、元禄の大火で1649軒の町屋と15の寺社が焼失した。
尾張藩4代藩主の徳川吉通は、火災から町を守るため堀川沿いにある商家の裏道幅を4間(約7m)に拡張した。道幅から四間道と呼ばれるようになった。
屋根神様や子守地蔵尊など下町情緒が残る貴重な地域として知られている。
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四間道界隈
西寺町と白山神社
美濃路から、浅間あたりで北に入るシンミチ筋には、海福寺、宝周寺、法蔵寺、西願寺、正覚寺が並んで西の寺町を形成していた。
また白山神社には、立場があり休息をとる旅人でにぎわった。その様子は尾張名所図会にも描かれている。
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西寺町と白山神社
八坂神社から枇杷島橋へ
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