美濃路 萩原宿

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萩原宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋17軒、家数236軒、人口1002人で、美濃路の中では最も規模の小さい宿場。 東から下町、中町、上町となっており、宿の中央で曲尺手となっていた。正面に高札場があり傍らに正瑞寺が建つ。 上町と下町の二箇所問屋場が置かれ、上問屋・下問屋と言われていた。

中島宮・長隆寺付近

一宮市に入り、中島宮一の鳥居前まで来る。一の鳥居から中島宮に通じる参道が まっすぐ北に延びている。参道を600mほど行くと、中島宮と長隆寺が並ぶように 建っている。
長隆寺は14世紀頃の創建で真言宗豊山派の寺院。 中世の尾張国の土豪だった中嶋城主中嶋蔵人氏の菩提寺だった。 山門は本瓦葺き、鬼瓦に「貞享5年(1688) つちのへ 辰 山田西世古瓦や に兵へ」のヘラ書きがある。
長隆寺所蔵の木造阿弥陀如来坐像(県・指定文化財)・木造観音菩薩立像 (市・指定文化財)・木造勢至菩薩立像(市・指定文化財)は、現在、一宮市博物館に 保管されている。


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  • 中島宮一の鳥居

    中島宮一の鳥居

  • 中島宮

    中島宮

  • 長隆寺

    長隆寺

  • 長隆寺

    長隆寺

萩原宿

一の鳥居に戻り1300m行った所に高木の一里塚があった。現在は碑が立っているのみだ。
荻原商店街に入る手前に串作庄屋・問屋場佐藤家跡がある。 徳川家茂が長州征伐で上洛の折、昼休憩をとったという名残の憐松軒枝風墳の碑 がその名残をとどめている。
萩原宿は、天保14年(1843)時の記録によると、本陣1軒、脇本陣1軒、 問屋場2軒、旅籠17軒、家屋236軒、人口1002人。 本陣は森権左衛門家、脇本陣は庄屋を兼ねた森半兵衛家、問屋場は 鵜飼家・木全家が交代で勤めた。 規模としては美濃路で最小の宿であった。
現在商店街となっている町並みは、昭和30~40年代のレトロな雰囲気をかもし出す。 萩原郵便局跡を過ぎ商店街を行くと、街道は右手に曲がる。その角左手に 正瑞寺の山門がみえる。正瑞寺は、蓮如上人巡行の際に天台宗から浄土真宗に改宗した 寺院。このあたりに高札場があったといわれる。 この角を曲がり、まっすぐ進むと左手に脇本陣、右手に上町問屋場、本陣が軒を連ねて いた。問屋場跡と本陣跡には碑が立っている。
本陣跡の西にあった萩原城は、秀吉の姉婿長尾武蔵守吉房の居城であった。 吉房は豊臣秀次の父、秀次が謀反の疑いで失脚すると、追放され萩原城は廃城となった。江戸時代になると尾張藩祖徳川義直の御茶屋御殿が建てられていたという。
宿場を出て日光川を渡り、右手に曲がったところに孝子佐吾平の碑がある。天保年間(1830-43)明石藩松平斉宣の参勤交代の折、暴れ馬を取り押さえようと行列を 横切った佐吾平は無礼討打ちにされてしまった。尾張藩は領内で起こったこの事件を重く見て抗議。以後、明石藩が尾張藩領内を通行するときは葬式の装いをして 通行したといわれている。


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  • 串作庄屋・問屋場佐藤家跡

    串作庄屋・問屋場佐藤家跡

  • 串作庄屋・問屋場佐藤家跡

    串作庄屋・問屋場佐藤家跡

  • 萩原宿へ

    萩原宿へ

  • 萩原宿東入口

    萩原宿東入口

  • 萩原宿下町

    萩原宿下町

  • 萩原郵便局跡

    萩原郵便局跡

  • 高札場へ

    高札場へ

  • 高札場跡と正瑞寺

    高札場跡と正瑞寺

  • 正瑞寺本堂

    正瑞寺本堂

  • 上町へ

    上町へ

  • 上町問屋場跡の碑

    上町問屋場跡の碑

  • 本陣跡(手前)と脇本陣跡(右奥)

    本陣跡(手前)と脇本陣跡(右奥)

  • 萩原城跡

    萩原城跡

  • 萩原城跡

    萩原城跡

  • 孝子佐吾平の碑

    孝子佐吾平の碑

  • 孝子佐吾平の碑

    孝子佐吾平の碑

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