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美濃路・東海道追分
美濃路の起点は名古屋市熱田区伝馬1丁目、東海道と分岐する追分に始まる。
東海道はここで南東方向に直角に折れ、七里の渡し場(神戸方面)に向かい、美濃路は北西方向に曲がり熱田神宮に至り名古屋城下へと続く。
この追分の正面には、戦後まで上知麻我神社(源太夫社)が建っていた。上知麻我神社は「知恵の文殊さま」と呼ばれ、古くから知恵の神様として崇拝されており、現在は熱田神宮境内に移転されている。
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東海道美濃路追分周辺の風景
熱田神宮から断夫山古墳へ
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熱田神宮
追分から、途中で国道1号線を超え、50mほど進むと熱田神宮につきあたる。 熱田神宮の起源は第12代景行天皇の時代に遡る。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰途、尾張の地で 宮簀媛命(みやすひめのみこと)と結婚。その後、日本武尊が亀山市能褒野(のぼの)で没したため、宮簀媛命が 日本武尊の形見である草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を熱田の地に奉納し、祀ったことに始まるとされている。
また熱田神宮は、仙人の住む蓬莱島の異名を持ち、名古屋城は熱田神宮の左側にあることから蓬左城とも呼ばれていた。
本町通へ
本町通(美濃路の一部)は、名古屋城築城時に熱田から名古屋城へ通じる幹線道路として建設され、熱田神宮から橘町まで国道19号線(伏見通)の 中央部を走っていた。現在でも熱田から橘町にかけての国道19号線(伏見通)沿いに多くの寺院が点在するのはその名残。
熱田神宮に沿って北上すると左手に誓願寺の山門が見えてくる。山門の脇に「右大将頼朝公誕生舊地」いう石碑が建てられている。熱田大宮司藤原季範の娘、由良御前は源義朝の妻となり源頼朝をここで産んだと伝えられており境内には「産湯の井戸」が残っている。
誓願寺から西へ250m行った堀川沿いにあるのが白鳥古墳。5世紀末頃から6世紀前半頃に築造された前方後円墳で、全長が約74m、最大幅25mの 大きさを持つ。法持寺のすぐ隣にあり、白鳥となってこの地に戻った日本武尊の墓と伝えられている。
鷲峯山(だんぷやま)古墳の手前に熱田神宮二の鳥居があった。江戸時代、熱田神宮のまわりには八つの鳥居があったといわれる。
鷲峯山古墳は東海地方最大の前方後円墳で、前方部111m、後方部74mの幅があり、江戸時代には年に一度この墳墓にのぼることが許されていた。
堀川を挟んだ鷲峯山古墳の対岸には御船蔵や御材木場があり、現在は白鳥庭園や太夫掘、cop10の会場となった国際会議場が並んでいる。
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尾頭から古渡
西高蔵の交差点を過ぎ、尾頭の交差点の手前に本町通をまたぐように一の鳥居が建てられていた。 一の鳥居は熱田神宮周辺の八つの鳥居のなかでもひときは大きく、三丈五尺(11.6m)もあったといわれている。
一の鳥居をの近辺堀川沿いに沢観音妙安寺と住吉神社が向き合っている。沢観音は熱田の宮の周辺にあった四観音の一つで、遠く鈴鹿山系も望まれた名古屋三景のひとつであった。
新尾頭の交差点から250m行き、名古屋ボストン美術館の入っている金山南ビルの交差点を左に曲がると、佐屋街道に通じる。佐屋街道は佐屋の渡しに通じる道で、木曽川を三里下って桑名宿に到達、七里の渡しの迂回路として使われていた。
金山を過ぎ古渡を進むと山王神社があり、その周辺には宿と宿の間にあって旅人が休息する立場があった。また小栗街道(鎌倉街道)が山王稲荷の前(現在の山王通あたり) を通っており、萱津を経由して京都へと通じていた。
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東別院から橘町
古渡の交差点を右に山王通を200mほど東に行くと東別院の山門が目前に。東別院は真宗大谷派の寺院で、1690年 尾張藩主徳川光友より織田信長の父信秀の居城「古渡城」の跡地1万坪の寄進を受けて建てられた。
明治初期には愛知県庁が名古屋城内から移転されたこともある。東別院の西、愛知産業大学工業高校のあたりに芝居小屋があった。
美濃路に戻り古渡の交差点を越え、国道19号線と分岐し斜め北東に折れ橘町へと入ると大木戸が設けられていた。名古屋城下の境界とされ、夜間は閉められた。周辺には妙善寺、栄国寺などがある。
栄国寺のある場所は、尾張藩の刑場で千本松原と呼ばれ、多くのキリシタンも処刑された。尾張藩主徳川光友は刑場を土器野(かわらけの - 現清須市)に移転し、跡地に栄国寺を建立手厚く保護した。境内には切支丹墓地や切支丹遺跡博物館があり、踏み絵などが展示されている。
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門前町から南寺町北端
大須交差点の手前左手にあるのが真宗大谷派、西本願寺名古屋別院。慶長14年(1609)の「清須越し」で名古屋に移転された。文化14年(1817)葛飾北斎が境内で、120畳敷きの達磨の大画を描き注目を集めたことでも有名。明治6年(1873)には、名古屋大学医学部の前身、医学講習所が境内に置かれていた。
岩井通をはさんで北側に七ッ寺、さらにその北、伏見通の西に大須観音がある。
江戸時代、東別院から白川公園にかけての 美濃路(本町通)沿いには多くの寺院が建立され、南寺町と呼ばれていた。 七ッ寺は天平七年(735)尾張国中島郡に行基上人によって創建されたと伝えられてる。天正十九年(1591)清洲城下に再建された後、 清洲越しによって現在地に移転された。境内には戦災で焼失するまで徳川光友により寄進された三重の塔が建っていた。
大須観音は真言宗の寺院で、正式名称は「北野山真福寺宝生院」。元弘3年(1333)に現在の羽島市の大須郷に僧能信が創建したのが 始まりとされて、清州越しにともなって現在地に移転された。
『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する 「真福寺文庫」があることでも有名だ。
万松寺本町交差点を過ぎ少し東に入ると織田信長の菩提を弔う総見寺がある。この寺も清州越しにより名古屋に移された。
門前町とは総見寺門前を意味し、境内には信長公、信雄公の廟がある。
総見寺の南東にある万松寺は,天文9年(1540)、織田家の菩提寺として織田信秀が現在の中区錦・丸の内にまたがる広大な敷地に建立。信長の父・織田信秀の葬儀で、「うつけ」と呼ばれた信長が抹香を位牌に投げつける場所として知られている。名古屋城下(碁盤割)建設で現在地に移転された。
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門前町
白川公園あたり
美濃路(本町通)は、若宮大通を超え左手に白川公園を見て広小路へと進む。
戦前までの白川公園は、南寺町の北端に位置し十王堂、 隆正寺、光明寺、願故院、寿経寺、誓願寺、養林寺、大林寺、芳春院、西光院、法應寺、西光院、仙昌院、宝珠院、大運寺、尋盛寺、瑞宝寺、 法蔵寺、徳林寺など大小の寺院が集中していたが、戦時中に順次移転された。
戦後は昭和33年(1958)まで進駐軍のキャンプとして接収され、返還後は公園として整備され名古屋市科学館や名古屋市美術館が建設された。