八橋のかきつばたは、平安の歌人“在原業平”が、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように伊勢物語の昔から知られるかきつばたの名勝地です。
無量寿寺に隣接する庭園(面積約13,000平方メートル)には約3万本のかきつばたが植えられています。毎年5月の10日前後に見頃を迎えます。
方巖(売茶)井戸のいわれ (案内版より)
方巖(売茶)井戸方厳売茶翁が、紀州におもむいた折、紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)公より「旧跡八橋を大切にせよ」とのお言葉があり、帰寺して、心字池に水を入れるための井戸を掘る予定でしたが、病気になりその志を果たせず、嘉永二年(1849)八世朴仙和尚の代に、ようやく完成し、心字池に水を入れたと伝えられている。
心字池 (知立市教育委員会 案内版より)
心字池この庭園は、寺の再興者であった方厳売茶翁和尚が文政年間(1818-29)に、以前よりここにあった池や茶庭風に改造したものと思われる。
庫裏(くり)前の杜若(カキツバタ)池を中心とし、一の段から四の段まで生け垣で区切られ、人の影を見ることなく回れる回遊式庭園となっている。
また正面遠景には岡崎の村積山、近景には逢妻川の清流を借景として取り入れている。生け垣には赤目樫・山茶花が植えられ美しく刈り込まれている。
八橋古碑 (知立市教育委員会 案内版より)
無量寿寺境内に立つ八橋古碑史蹟名勝の地として知られたここ三河八橋は、古くから文人墨客の訪れることが多かった。この碑文は、荻生徂徠門下の秋本嵎夷(ぐうい)が岡崎候に招かれて儒官をつとめていたとき、たまたまこの地を訪れ、「八橋紀事弄王孫歌(やつはしきじならびにおうそんか)」と題して"八橋と業平の故事"についてまとめたものである。書は門人の国分興伯機(こくぶこうはつき)で、同門人の由良不淰(ゆらふねん)により寛保二年(1742)に建立された。亀の上に三五七の漢字を刻んだ碑柱が建ち、一般に亀甲碑(きっこうひ)と呼ばれている。
芭蕉連句碑 (知立市教育委員会 案内版より)
かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉
麦穂なみよる 潤ひの里 知足
無量寿寺境内に立つ芭蕉連句碑芭蕉が貞亨元年(1684)に「野ざらし紀行」を終え翌年四月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊まり俳筵(はいえん)を開いた時の作といわれる。芭蕉は知足の案内でこの旧蹟八橋に遊んで懐古にふけったであろうか。碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とあり、三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものとされている。
在原寺墓石 (知立市教育委員会 案内版より)
在原寺墓石向かって左側の塔は、「一石五輪塔」で、大正八年古城跡より出土した。次の塔は「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」で、八橋伝説の師孝尼の供養塔である。
いずれも室町時代の様式を伝えている。そのほかは当寺住職の墓石で、五輪塔は、地水火風空の五石からなっている。
業平供養塔 (知立市教育委員会 案内版より)
業平供養塔「在原寺縁起」では寛平年間(889-897)に業平の骨を分け、この地に塚を築いたとされている。しかしこの供養塔はそれより後、鎌倉末期頃に業平を偲び建立されたものと考えられる。形式は宝篋印塔(ほうきょういんとう)で全高は約1m。基壇は八葉複弁式で、側面には格狭間を刻している。
塔身には梵字(金剛界四仏)を刻し、関西式と呼ばれるものである。現在はたまった水にいぼをつけると治るといういぼ神様として信仰されている。
樹齢数百年と推定される古松があったが、伊勢湾台風で惜しくも枯死した。
根上がりの松 (知立市教育委員会 案内版より)
根上がりの松根にあった土が歳月を経て流出し、現在のように根が上がったように見えることからこの名が付いた。この松は、安藤広重の浮世絵「東海道名所図会」中に描かれている松に当たると思われ、したがって、少なくとも江戸時代後期には、既にこの地に存在していたと考えられる。この松の種類はクロマツで、樹皮は黒褐色、葉はアカマツよりも太く剛い。材質は堅固で、建築材料や薪として用いられ、樹幹から松脂をとる。アカマツの雌松に対し、雄松と呼ばれている。
なお一節には、この松は鎌倉街道の並木の一部であったともいわれている。