桶狭間古戦場まつり(取材2009年6月)
桶狭間古戦場まつりは毎年6月に開催されています。
沓掛城址では午前中、太鼓の演奏、火縄銃の発砲、棒の手などが行われます。
講釈師が話す物語の進行に合わせて出演者が立ち回る合戦再現劇午後2時30分頃より舘小学校から桶狭間古戦場伝説地(高徳院前)まで武者行列が行われます。段ボールで手作りした甲冑を身にまとった武者達が信長隊と今川隊の2隊に別れて練り歩きます。行列は高徳院雲上ホール駐車場の主会場へと上っていきます。
武者行列が主会場へと到着すると、桶狭間の合戦再現劇が行われます。毎年、今川義元、織田信長、家臣や姫役を一般参加者が演じています。講釈師が話す物語の進行に合わせて出演者が立ち回り、合戦劇が見事に再現されます。
桶狭間の戦い
永録3年(1560年)5月12日(旧暦)甲斐の武田、小田原の北條と同盟を結んだ今川義元は、2万5000人の軍を率いて尾張への侵攻を開始しました。
今川勢は海に面した鳴海城(名古屋市緑区)城主に岡部元信、大高城(名古屋市緑区)の守備を鵜殿長照がつとめ、両城は信長攻撃の前線基地としての役目を果たしていました。
これに対して織田信長は鳴海城のまわりに丹下砦(織田信平・飯尾定宗・信宗父子が守備)、中島砦、善照寺砦(佐久間右衛門信盛とその弟左京助が守備)を鳴海城攻略のため築き、大高城に対しては丸根砦(織田勢佐久間盛重以下が守備)、鷲津砦(織田信平・飯尾定宗・信宗父子が守備)を築き兵糧攻めを行いました。
5月17日(旧暦)、桶狭間から北西4キロの沓掛城まで進んだ今川本隊は、大高城に兵糧を送るための先兵として松平元康(のちの徳川家康)を派遣。松平元康隊は大高城に兵糧を届けた後、丸根砦を攻撃し攻め落としました。また、今川勢の朝比奈泰能らは鷲津砦を攻略し落城させました。
丸根砦・鷲津砦落城の報を清須城で聞いた織田信長は、今川の大軍を前に篭城を主張する家臣らの意見をしりぞけ、進軍を決意しました。
織田軍は熱田神宮を経由して桶狭間方面へ軍を進め、鳴海付近で今川軍と小競り合いをしたのち、善照寺砦・中島砦に結集します。
5月19日、丸根砦・鷲津砦攻略成功により勝利を確信した今川本隊は鳴海城を目指し、沓掛城を出発しました。しかし鳴海城へ向かう途中、猛暑による兵の疲労もあり桶狭間で休息をとることになりました。その知らせを受けた織田軍は、兵力が分散し手薄になった今川本陣を急襲。みごと今川義元の首級をあげ織田軍の勝利のうちに桶狭間の合戦は幕を閉じました。
合戦後、鳴海城主の岡部元信は、義元の首級と引きかえに城を明け渡し、大高城にいた松平元康(のちの徳川家康)は今川軍が放棄した岡崎城主として返り咲きました。
戦人塚は、桶狭間合戦における戦死者2500余人を、供養しています。