大足蛇車まつり(武豊町)
『大足蛇車まつり』は、7月の第3週の土・日、知多半島中央東岸に位置する武豊町の豊石神社(旧大足村)で開催されます。
豊石神社と武豊町
豊石神社豊石神社のある武豊町は、明治11年(1878)に長尾村と大足村が合併して武豊村として出発し、明治24年(1891)町制を施行し武豊町となり、昭和29年(1954)には富貴村を加えて現在の姿になりました。武豊の名は、武豊村ができたときに、旧長尾村と旧大足村の氏神である武雄神社と豊石神社の頭文字をとって命名されたものです。
豊石神社は、須佐之男命・日本武尊・姫大御神を祭っています。創建は今より天正9年(1573)で当時は八剣大明神と呼ばれていました。天保8年(1837)豊石神社と改称し、明治5年大足村社になりました。戦前の祭礼日は前夜祭7月19日、本祭7月20日、現在は海の記念日近くの週末に行われています。
蛇車まつり
蛇車のはじまりは、この地に住んでいた竜の娘「小夜衣(さよぎぬ)」が人間との恋に落ち、父母(竜)の命令を拒んだため父竜の呼んだ稲妻に打たれて亡くなったという悲恋伝説の主人公「小夜衣」の霊を慰めるために始まったといわれています。ありし日の祭りの夜の出来事をモチーフに、盛大な山車を作り竜の頭に花火を仕掛け、これを村の若者が山車の上で振るという祭の形は今から200年以上前に始められたとされています。
山車上部から蛇の頭が伸びている以来、昭和13年に戦争の激化のため中断(9年間)するまで続けられました。終戦とともに先ず祭りを再開しようと声が上がり、バラバラの状態で箱に納めてあった山車の組み立てを初めましたが、痛みも激しく、部品不足もあったりして、大工さんに大急処置をしてもらい苦労のすえ再開にこぎつけたのが昭和21年でした。現在の山車は天保10年(1839)に旧大谷村(現在の常滑市大谷)より購入したものです。
手筒花火の方も手作りで火薬を岡崎まで舟で買いに出かけ、竹も方々から調達。火薬の配分や仕込み方を先輩から習って実施にこぎつけました。それから8年間、昭和28年まで続きましたが、台風や諸々の事情で20年間、再び中断せざるを得ませんでした。昭和49年に再度再開し、以後山車の修理を逐次行いながら現在にいたっています。
「竜の恋」(蛇車まつりの由来となった悲恋伝説)
その昔、衣浦湾の水底に親子三匹の竜が住んでいました。普段は人目を避けてめったに姿を現しませんが、うららなか春の日や涼しい風の吹き始める夏の夕方には、波うちぎわの岩礁で人間に姿を変えた竜の親子が楽しく過ごす姿を土地の漁師に見られることはありました。近くに舟などなく「師崎水道には、竜が人間に化けて現れる。」といった噂が広まり、竜のたたりを恐れて漁師たちも岩礁を避けて通るようになりました。
ある年の大足村の豊石神社の祭礼の日、祭りが最高潮に達しようとした頃、神社近くの海岸にこの世の者とはいわれぬような美しい娘が立ち止まっていました。竜の娘が、祭りばやしの音に誘われ、おりからの上げ潮に乗って岸に上がってきたのでした。
村の若者は笛や太鼓を打つ手を止めて、この娘の美しさに見とれました。この視線を感じ我に返った竜の娘は大急ぎで波打ち際に引き返そうとしましたが、とっくに潮は引いており上げ潮でなければ海に帰れない竜の娘は、途方にくれて砂浜で泣いてしまいました。
そこに現れたのが、長尾村の豪士、高木但馬のひとり息子「作之進」でした。作之進は娘にやさしく声をかけました。りりしく、美男子の姿に娘の心は乱れます。若者は事情を深く聞くこともなく、自分の館に来るようにとの申し出をしたのでした。
高木の舘に引き取られた娘は、「小夜衣(さよぎぬ)」と名付けられ侍女として大切に扱われます。小夜衣と作之進は恋に落ち、夢見心地の生活に娘はすっかり竜の化身であることをわすれ、月日が夢のように過ぎてゆきました。
しかし、時折自分が竜の化身であることや、年老いた父母を思いだすたびに淋しく、悲しい思いに襲われました。小夜衣はしばしば舘をぬけだし、砂浜にたって潮騒を聞くたびに何度も海に戻って両親のもとに帰ろうと決意しますが、作之進のりりしい姿を思い浮かべるたびに、その決心はゆらぎました。
ある夜、浜辺にたたずんでいると海のなかから小夜衣を呼ぶ父母の声が聞こえてきました。小夜衣の足は海に向かいますが作之進への思いに立ち止まり、舘に戻り始めました。その時、おだやかに晴れ渡っていた夜空に、稲妻がとどろき小夜衣の命を奪いました。小夜衣の姿を探し求めた作之進の目に浜辺に横たわる小夜衣姿がうつります。
小夜衣の顔には、かすかな笑みが浮かんでいたと伝えられています。
参照文献:豊石神社祭由来「火の祭と竜の恋」 編集/伊藤道男 発行/武豊町大足区蛇車世話人会)