- 名古屋開府400年のながれ
- 古代の名古屋と清洲城下
- 江戸時代(名古屋城下の都市計画)
- 明治時代の名古屋(東海道線開通と名古屋港建設)
- 大正時代(全国第3位の都市へ)
- 昭和初期(近代化進む100万都市)
- 戦後の復興から高度成長へ
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古代の名古屋
名古屋台地の出現
古代、名古屋は東海湖という湖の中心に位置していました。この東海湖が隆起し、半島として名古屋台地が形成されました。 その表土は瀬戸、常滑方面や滋賀県に流れ、現在の良質な陶器の原料となっています。
北は名古屋城、東は覚王山、西は堀川沿い、南は熱田神宮の範囲で象の鼻のような形で伸び、熱田神宮の沖合いは遠浅の海になっていました。 名古屋城下はこの名古屋台地の上に築かれました。
地形の変遷
東海最大の城下町清洲
清洲城は応永12年(1405年)斯波義重によって築城されました。その後織田信友の居城となりましたが、弘治元年(1555年)信友は信長により殺害され、 信長は清洲城を大改修して那古野城より移り約10年間居城としました。
本能寺の変で信長が倒れ、相続した次男・織田信雄も小田原攻めで秀吉に逆らい城を追われて、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となりました。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では東軍の後方拠点として利用されました。