明治時代の名古屋(東海道線開通と名古屋港建設)

名古屋開府400年のながれ
古代の名古屋と清洲城下
江戸時代(名古屋城下の都市計画)
明治時代の名古屋(東海道線開通と名古屋港建設)
大正時代(全国第3位の都市へ)
昭和初期(近代化進む100万都市)
戦後の復興から高度成長へ
☆INDEXへ☆

明治時代の名古屋

明治時代の日本の動向(1868~1911)

1868年に年号を明治と改め新政府が樹立されました。明治4年(1871)には廃藩置県を施行、身分の撤廃も行われました。 一方、欧米列強に追いつくため富国強兵・殖産興業を推奨し、日清・日露戦争の勝利によって世界における近代国家としての地位を築いてゆきました。

明治時代の名古屋の人口推移

江戸時代の名古屋の町人の人口推移

明治時代の名古屋の人口推移

名古屋にも文明開花の足音が

明治4年(1871)に廃藩置県が行われました。翌年の明治5年愛知県は額田県を合併し現在の愛知県が誕生し、県庁は名古屋城内に置かれました。
明治11年(1878)名古屋区が発足、明治22年(1889)市制施行により名古屋市が誕生しました。市域はおおむね現在の中区と東区にあたるものでした。
その後、明治31年(1898)那古野村、古沢村を編入、明治38年(1905)鳴海村、明治40年(1907)熱田町、小碓村、明治41年(1908)には区政が導入され 中区、東区、西区、南区の4区時代がスタートしました。明治42年(1909)には千種町、御器所村を編入、人口も40万を超える中核都市に発展してゆきました。 その後も都市化の波は周辺部に広がりました。

  • 博覧会出展のため金鯱がおろされた明治6年

    博覧会出展のため金鯱がおろされた明治6年

  • 愛知県庁 明治11年南久屋町

    愛知県庁 明治11年南久屋町

  • 市制施行時の名古屋市役所 明治40年焼失

    市制施行時の名古屋市役所 明治40年焼失

名古屋飛ばしの危機ー東海道線の開通と名古屋駅の建設

明治16年(1883)政府は東西両京を結ぶ幹線鉄道を中山道に建設することに決定しました。軍事的な理由により海岸線から離れた中山道に敷設する計画でした。 中山道を走り大垣に抜けるこの案は名古屋にとって今後の発展に大きな支障をきたすものでした。
当時の名古屋区長吉田禄在は、県令国貞廉平とともにこの案に異議をとなえました。木曽から美濃路を越す難所である馬篭峠での工事の困難や、 東海道線の経済的な優位性を訴えて公債募集も始まっていたこの案をくつがえし、名古屋を通過する東海道線の開通にこぎつけました。
反対もありましたが明治19年(1886)5月1日 名古屋駅は当時沼地と田んぼであった笹島に建設され、開業当初は置かれた地から「笹島停車場」 とも呼ばれていました。また都心と駅を結ぶため、堀川まで拡充されていた広小路通を笹島まで延長する工事も突貫工事で行われました。
それから12年後の明治31年(1898)京都についで全国2番目の市内電車が名古屋電気鉄道により広小路(笹島・県庁前間)の運転をはじめました。

  • 開業直後の名古屋停車場-笹島

    開業直後の名古屋停車場-笹島

  • 名古屋停車場構内

    名古屋停車場構内

  • 県庁前を走るちんちん電車

    県庁前を走るちんちん電車

悲願の名古屋港建設へ-遠浅の海そして資金不足

東海道唯一の海路「七里の渡し」に象徴されるように名古屋港ができるまでの海岸線は熱田まで来ていました。熱田湾は伊勢湾の最深部にあり、 西部の低地は木曽・長良・揖斐の三大河川により運ばれる土砂が堆積し形成された沖積平野でした。また熱田湾には、庄内川・新川・山崎川・天白川などの 中小河川も流入し大量の土砂を排出していました。このため熱田港の沖合いは遠浅で干拓事業には適していましたが、熱田港への大型船の入港をはばむ大きな要因 となっていました。当時は四日市まで運ばれた貨物を小型船に積み替えて熱田港まで回漕せざるをえませんでした。

明治14年(1881)名古屋区長吉田禄在は名古屋港建設を政府に上申しましたが、港湾造成には不適格との理由で顧みられることもなく終わりました。明治18年(1885)明治政府は東京~横浜の例にならい、武豊港を名古屋の外港として位置づけ、武豊から熱田への鉄道敷設を行いました。 しかし、明治22年(1889)東海道線の開通により武豊線の重要性が薄れてしまいました。その後、産業の発展と、日清戦争(1894)時における熱田港からの 軍隊や物資の輸送能力の限界を問う声もあり、あらためて名古屋港建設の機運がおこりました。

明治29年(1896)、反対の声もありましたが、第一期工事が始まりました。しかし不運にも同年8月と9月の二度にわたり未曾有の大暴風雨の被害を受け、 その復興費用の支出が必要とされたこともあり、工事の中止や延期の声も強まり名古屋港建設は出だしでつまずくこととなりました。その後も反対の声は止みませんでしたが、突堤工事、砂防提・防波堤の建設、浚渫工事、灯台・航路標識の設置、市街地開設、耕宅地新開などの工事が進みました。

明治39年(1906)9月、建設工事も終盤を迎えるなか、築港関係者は世論に築港工事の必要性を訴えるため全国を巡航する博覧会用の汽船「ろせった丸」の入港を提案しました。 完成途中で海図もないとの理由で最初は断られましたが、関係者の熱意が通じ入港が認められました。多くの見物人が押し寄せ人気を博したので築港反対の声はなくなりました。
明治40年(1907)、熱田町、小碓村が名古屋市に編入されたのを受けて、熱田港は名古屋港と改称され同年開港にいたりました。

  • 明治中頃の熱田港

    明治中頃の熱田港

  • 熱田沖の浚渫作業

    熱田沖の浚渫作業

  • 開港直後の名古屋港地図

    開港直後の名古屋港地図

  • 「ろせった丸」の入港

    「ろせった丸」の入港

  • 名古屋港の開港 明治43年

    名古屋港の開港 明治43年

  • 名古屋港イメージ着色

    名古屋港イメージ着色

名古屋開府300年を迎え、大規模博覧会を開催

明治40年(1907)11月、愛知県は第十回関西府県連合共進会の誘致を決定しました。関西府県連合共進会は、明治16年(1883)大阪府が主催して 1府16県の参加で始まり、以後ほぼ3年おきに開催されてきました。
開催の要請を受けた愛知県知事は一任を条件にこれを受け、開催日数や規模を大幅に増やすことを議会にはかり可決されました。 明治43年(1910)に開府300年を迎える名古屋市民の意気はもりあがり、名古屋市も公園となることが決定されていた鶴舞の地を造成して会場として提供しました。
また会場に通じる整備も行われ、広小路の新栄から会場に通じる道路と南大津町通の上前津から会場に通じる道路が整備されました。

整備の進む関西府県連合共進会会場

整備の進む関西府県連合共進会会場

会期は3月16日から6月13日までの90日間。参加府県は3府28県と広げ林産館、機械館、農産館、工産館、養蚕館、特許館、台湾館などのパビリオンが並び、 名古屋市は貴賓館、噴水塔、演舞場、奏楽堂を建設しました。
入場者数は260万人に達し全国の耳目を集めました。新興都市として発展する名古屋市民に与えた影響は多大なものでした。現在でも噴水塔と奏楽堂は鶴舞公園の シンボルとして市民に親しまれています。

  • 共進会会場図

    共進会会場図

  • 会場入口

    会場入口

  • 内部から見た会場の正門

    内部から見た会場の正門

  • 当時の栄町の様子

    当時の栄町の様子

  • 会場内部の風景

    会場内部の風景

  • 現在も残る奏楽堂

    現在も残る奏楽堂

to page top