江戸時代(名古屋城下の都市計画)

名古屋開府400年のながれ
古代の名古屋と清洲城下
江戸時代(名古屋城下の都市計画)
明治時代の名古屋(東海道線開通と名古屋港建設)
大正時代(全国第3位の都市へ)
昭和初期(近代化進む100万都市)
戦後の復興から高度成長へ
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江戸時代(名古屋城下の都市計画)

江戸時代の日本

慶長8年(1603)徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府が開かれました。慶長19年、慶長20年二度にわたる大阪冬・夏の戦役で 豊臣家は滅亡し徳川幕府の基盤はゆるぎないものとなりました。
17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけての元禄時代には天下泰平になり、上方(京都・大阪)を中心に「元禄文化」が花開きました。

享保元年(1716)に第7代将軍・徳川家継が僅か8歳で早世し質素倹約を推奨する徳川吉宗が8代将軍に任じられると、財政の安定化をはかるため 享保の改革を行い金融引締め政策を行いました。一方、この時期には町人層の成長がみられ、学問・文化・芸術・経済等様々な分野が発展しました。

江戸時代も19世紀を迎えると、農業を基盤とする幕府の体制は人口の増大や貨幣経済との軋轢を生み、揺らいできました。 また、産業革命によって近代化を果たした西洋諸国が市場と資源を求めて鎖国政策をとっていた日本の近海に頻繁に出没するようにもなりました。 幕府は外国船打払令を発して対抗しましたが、西欧諸国の圧倒的な軍事力のまえに屈して嘉永7年(1854)日米和親条約を締結し開国することになりました。
尊王攘夷派との抗争など幕末の動乱を経て慶応3年(1867)大政奉還がおこなわれ徳川幕府の幕は閉じられました。

江戸時代の名古屋の町人の人口推移

江戸時代の名古屋の町人の人口推移

江戸時代の名古屋の町人の人口推移

清洲越から名古屋に、徳川家康の城下町建設

慶長15年(1610年)名古屋城の建設が始まりました。以後、4年の歳月をかけ完成にいたりました。 家康は、江戸・大阪につぐ城下町として情熱をもって町づくりを行いました。すでに6万人余の暮らす清洲城下から寺社(120余)、 町名もそのまま移転させる計画は歴史上まれなことで、徳川家康の意気込みと力を天下に示す効果は十分であったことでしょう。

  • 名古屋城ー尾張名所図会

    名古屋城ー尾張名所図会

  • 加藤清正石引きの図ー尾張名所図会

    加藤清正石引きの図ー尾張名所図会

  • 加藤清正像

    加藤清正像

初代藩主徳川義直の治世

元和2年(1616)初代藩主義直は、駿河より名古屋城に移りました。家康は御三家筆頭として、62万石に加え尾張藩の財政基盤を安定させるため 、木曽の山林(御用林)を与えました。その堅実な藩政は名古屋城下の発展を刺激し、現在の名古屋の中心部の骨格を形作りました。
また現在、蓬左文庫にて所蔵されている「駿河御譲本」は、家康の遺産として家康より与えられ貴重な文化財になっています。 慶安3年(1650)義直は江戸藩邸で死去、瀬戸市の古刹定光寺にある廟所に眠っています。

  • 蓬左文庫

    蓬左文庫

  • 駿河御譲本

    駿河御譲本

  • 定光寺にある廟所

    定光寺にある廟所

名古屋の繁栄に京がさめた」宗春時代の繁栄

平和公園にある徳川宗春の墓

平和公園にある徳川宗春の墓

とかく地味だ保守的だと言われる名古屋ですが、元禄時代も終わり18世紀に入った1730年に七代藩主として徳川宗春の治世を迎ました。 奇行で知られる宗春ですが、その開放的な政策で名古屋は京をも凌ぐ文化都市として脚光を浴びました。「名古屋の繁栄に京がさめた」と巷で言わました。
これに遡る事14年、江戸幕府8代将軍に紀州藩徳川吉宗が選ばれました。徳川御三家筆頭の尾張藩の失意と屈辱は計り知れないものでありました。
宗春は、吉宗の質素倹約に対する反発をあらわに「温知政要」の政治理念をかざして、積極的な経済・文化の開放、拡大政策をおこないました。

寛永年間(1661-1672)になると、名古屋の人口も増加して、南の郊外にある門前町に碁盤割の町人を移す必要にせまられました。 興行を打つ特権などを与えましたが、あまり効果はあがりません。
大須がにぎわいをみせはじめたのは七代目藩主、宗春の時代になってからでした。武士にも芝居や寄席の見物を推奨し、さらに遊郭の開業も許しました。 大須をめざし人があつまりました。
名古屋城下には開放感がみちあふれ、吉宗の倹約政策で職を失った江戸・京都の芸人が名古屋に集りました。また、祭り好きの宗春は京都からからくり 職人を招き入れ厚遇したため、からくりを乗せた山車の6割がこの地にあったといわれています。代々その伝統は受けつがれ、「ものづくり愛知」 の伝統を形作る一因となりました。

しかし宗春の施策は幕府の反感を買い、財政の破綻も招いてしまいました。元文4年(1739年)、宗春は吉宗から隠居謹慎を命じられ、1764年失意の中で死去。死後も墓石に金網が掛けられました。 現在でも、宗春の人気は高く功罪両面の評価・研究はいまなお行われています。

  • 本町通のにぎわいー尾張名所図会

    本町通のにぎわいー尾張名所図会

  • 東照宮祭ー尾張名所図会

    東照宮祭ー尾張名所図会

  • 大須七ッ寺の茶店ー尾張名所図会

    大須七ッ寺の茶店ー尾張名所図会

幕末のお家騒動「青松葉事件」

幕末の動乱期尾張藩内でも勤皇派、佐幕派に別れ双方が対立していました。尾張藩は藩祖義直以来、尊王思想が強く、 14代藩主徳川慶勝も就任以来尊王攘夷の立場をとっていました。
大政奉還の後の慶応4年(1868年)藩主徳川慶勝の命により藩内の佐幕派を弾圧(斬首14名、処罰20名)しました。 この事件以降尾張藩は官軍の一員として戦いましたが、新政府の尾張藩への処遇は厳しく新政府内への尾張藩士登用はほとんどありませんでした。

  • 名古屋城二の丸にある青松葉事件碑

    名古屋城二の丸にある青松葉事件碑

  • 青松葉事件碑

    青松葉事件碑

  • 青松葉事件解説

    青松葉事件解説

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