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戦前・戦中の熱田を語る 横井正夫さん
高倉神社(名古屋市熱田区高倉町)の南にあった松川屋菓舗(和菓子店)を営まれていた横井正男さんに熱田神宮周辺の変遷を語っていただきました。(2002年秋収録)
※以下の文章は上のインタビュー動画から書き起こした内容です。
広かった熱田神宮
ご存知とは思いますが、新尾頭の伏見通(かっての本町通)沿いに熱田神宮の第一の鳥居跡があります。 熱田区役所のところには第二鳥居の碑があります。だからこのあたりは熱田神宮の境内なんです大昔は、そのなかの摂社として高倉神社があった。
玉の井という地名を調べたところ賀城園(料亭)の向えに威徳院というお寺があるんですが、そこが熱田神宮の大宮司のお屋敷で、 そこにあった湧き出る泉を当時の人は「玉の井」と呼んだのがそもそもの由来で、地名も玉の井となったと言われています。
ここの「夜寒町」という町名の由来は、熱田神宮でお供えで使われる皿の窯が、ちょうど旗屋小学校の近辺にあり、 地名が先がどうかはわからないけれども「夜寒焼き」という言葉が出てきます。「旗屋」というも地名も神宮さんの衣装を織っていた所から 「旗屋」という地名がでたということを聞いています。
財界人の別荘地
親父が商売を始めたのが昭和7年(1932年)ですが、その当時は名古屋財界のそうそうたるメンバーが旗屋小学校のもう一本むこう 道路から玉の井かけての一角の高台に、別荘というか別宅という形で住まわれていた。一等地も一等地、広大な屋敷が並んでいました。
戦後、住宅が建て込んで騒々しくなったということで、このあたりに住んでいた方たちが八事近辺、いまでいう南山あたりに屋敷を構えられました。
このあたりは戦前、それも昭和も一桁の頃は立派なお屋敷が随分あって、だから商売の方も潤っていました。 お屋敷には奉公人がたくさんおりまして、その人たちの賄いで需要もあって、また熱田神宮へお参りにいかれる客、とくに 大晦日の晩などはこの前の道は人がすれ違って通れないほどにぎわっていました。朝まで店を開けて営業した、私の子供のころの記憶として覚えています。
菖蒲(勝負)祭
また、菖蒲(しょうぶ)祭といって、かっては6月21日に行なわれました。戦時中ということもあり、「菖蒲(しょうぶ)」の花と「勝負」とを 掛け合わせて行なわれたと聞いています。熱田神宮の本祭りとして行なわれました。現在は6月5日に熱田祭りとして行なわれています。 6月21日はちょうど梅雨時の真っ最中で雨がよく降るということで、戦後もずいぶん経ってから6月5日に変更されました。
6月5日に変更される前は、この店の前の道(宮道)の両側に笹ちょうちんをつけてお祝いしたものです。その当時はすごい人出でにぎわいました。
高倉神社が身代わりになってくれた
この通リ(宮道※1)は、戦災でほとんど焼けていません。本町通(現在は、拡幅されて伏見通になっている)の西側に、東洋妨の紡績工場があって、 戦争中は軍需工場の下請けをやっていて、現在の名古屋トヨペット(尾頭町)の一角が東洋紡のレンガづくりの工場になっていたので空襲にあいました。
神宮駅前の東側には歩兵工廠があって機関銃とか大砲とかいろんなものを作っていた、それで米軍に狙われていたんですが、この一角だけは不思議に残ったんです。
地元の人たちが前にもまして高倉神社を敬うようになったのは、神社に親子焼夷弾が3発落ちて本殿が焼けたんです。 高倉神社が身代わりになって、我々を戦災から守ってくれた。立派な朱塗りの本殿や神楽殿もありましたが全て焼けてしまいました。 戦後、仮の本殿の時代がありましたが、その後現在の本殿が建設されました。
牛車で零戦を運ぶ
本町通の両側にはぎっしり家が建っていましたが、戦時中に強制疎開ということで取り壊され現在の19号線の幅に拡幅されました。
私が子供のころ、こんな広いところを何に使うんだろうと噂していました。何しろ牛馬車の時代でしたから。憲兵隊の人が牛車で大江にあった 三菱重工から解体した零戦を積んで、夜中のうちに各務原か小牧のどちらかの飛行場に運ぶんですよね。 自動車で運べばわけなく運搬できる時代にそんなことをやっていたから日本も負けたのかなと、時代遅れなことをやっていたと今から考えれば思います。
※1:宮道
宮道は、江戸時代につくられ、玉の井町で本町通から分岐し途中現在の大津通と合流して東別院に通じる街道で、本町通のバイパスとして戦前まで人々の 往来も盛んであった。