戦前の東別院・本町通・大須について語る 水谷司公さん

崇覚寺の元住職 水谷司公さん(故人)が語る昭和初期の東別院や大須界隈の変遷(2002年収録)

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戦前の東別院・本町通・大須について語る 水谷司公さん

崇覚寺の元住職 水谷司公さん(故人)は、戦前まで東本願寺名古屋別院掛所内にあった私立尾張中学校(旧制)に勤務された経験もあり、昭和初期の東別院や大須界隈の変遷をお聞きしました。(2002年収録)

※以下の文章は上のインタビュー動画から書き起こした内容です。

彼岸のにぎわい

名古屋が開府(名古屋城築城、清須越し)になったので、尾張地方は本願寺の門徒が増えていたので別院(東別院※1)を造ろうという運動があってそれで 別院が出来ました。
崇覚寺(※2)の門のから北にかけて土塀があり、こんな松がずうっと植えられていました。崇覚寺の前に2本、女学校(愛知産業大工業高校※3)に1本ありました。 そこまでが広見(ひろみ)と呼ばれていました。
春秋の彼岸にはサーカスとか、サーカスといっても見世物ですね。ろくろ首なんかがあって、 幕を開けると「花ちゃんよ」という掛け声で登場し三味線(しゃみせん)を弾いたり踊ったり。香具師(やし)の話もおもしろかったですよ。 本当に一日暮れたものです。サンショウウオとかいろんなものがありました。食べるものでも今ほどはないから、秋になると銀杏(ぎんなん)、 栗なんかは当時は上等で買えなかった。それから菱のみなんか食べました。

  • 東別院ー尾張名所図会

    東別院ー尾張名所図会

  • 崇覚寺周辺ー尾張名所図会

    崇覚寺周辺ー尾張名所図会

  • 東別院彼岸のにぎわい

    東別院彼岸のにぎわい

初詣

大須から栄国寺(※4)を通ってここ(東別院)に来るのがコースでした。向こうに行くと(本町通を南へ行くと)熱田です。
別院の周囲に倉庫があった倉庫の下に穴を掘って通るから「穴門通(あなもんどうり)」と呼ばれ本町通に通じていました。 東別院で参詣し栄国寺を通り本町通に入り大須へ行く。大須に八千久(やちく)という料理屋がありました。そこで茶碗蒸しですか、 そんなものを食べるのがコースでした。
大晦日(おおみそか)の夜や正月は、熱田神宮へ参拝する人手でぎわいました。 特に大晦日(おおみそか)の夜は人通りが途絶えず夜も寝れないほどでした。12時過ぎに熱田神宮へ着きたいから、 このあたりを11過ぎに歩きかける。当時は歩くしかないですから。熱田へ着くと、知恵の文殊さま(上知我麻神社※5)へ お参りしてからフナを食べました。別院の人出は少なかった、離れてますから。

  • 昭和初期の本町通門前町方向

    昭和初期の本町通門前町方向

  • 昭和初期の大須中店

    昭和初期の大須中店

  • 知恵の文殊さま(上知我麻神社)

    知恵の文殊さま(上知我麻神社)

大須のにぎわい

「ホウタク」という四角いマークをつけた馬車が本町通を通り、大須へ行ってました。大須の東側に動物園(浪越動物園)がありました。 旭廓が中村へ移るまでは、大須(西大須)にあった。大繁盛ですよ。常盤町、下園町など現在の大須観音の北西から、御園町にいたる地域が旭廓にあたり、 真ん中に桜並木がありました。子供の頃はよく桜見物にいったものです。大須に煮込みうどんの店があって置屋から芸者が食べにくる。 それを見にくる客で繁盛したものです。
大須観音の本堂は、現在と同じ北にありました。観音堂が西にあり、明治時代に焼失しましたが 五重塔も境内にありました。観音堂が本堂よりもにぎわった、仁王門の正面にありました。
当時の従業員はみんな住み込みです。家内工業でしたから晩ごはんを適当にすませ、風呂へ行ってくるといって大須へ行ったものです。 大須は食べ物が安くて、大きい。どんぶり物も安くて大きかった。大須に映画館がいくつあったと思います。 「文明館」「太陽館」「電気館」「世界館」などがあり、商店も話術の商売でとにかく面白かった。毎日行っても飽きませんでした。 12時過ぎるとお泊りになり、住み込みの人は帰っていきました。

  • 昭和初期の大須門前町

    昭和初期の大須門前町

  • 昭和初期の大須観音

    昭和初期の大須観音

  • 夜もにぎわう大須仁王門通

    夜もにぎわう大須仁王門通

恐怖に直面すると人間は一人でおられない

栄国寺の本尊(阿弥陀如来)が南に向かって座っているので戦災は受けないと言われていましたが、東別院までは空襲で燃えました。広見は全部疎開してました。 東別院の南側は旅館が建てこんでいましたが取り壊し、広くされており、東別院の西側も現在の伏見線も住居を戦車で取り壊し、広くなっていましたので、 大須に至るこの地域は焼け残りました。当時はみんなが交代で徹夜で巡回で見回りました。崇覚寺の門前の車庫のあたりに防衛軍の詰め所があり、 12組あった当番のうち2組づつを夜10時から朝まで毎晩詰めてもらいました。

東別院は、焼失する運命にあったと思います。しょっちゅう米軍の偵察機が写真を撮ってましたから。東別院は軍隊の宿舎になっており、 山門の前に輸送隊の車輌が列をなしていたので、空襲にあうと確信していました。空襲の当日、東別院に焼夷弾が落ちましたが、こちらは爆撃を免れました。 東別院庫裏(くり:お勝手場)の向こうに、門徒が宿泊する10畳ほどの部屋が並び、そこが軍隊の宿舎になっており、輸送の車が毎日来ていましたので米軍の 偵察機が毎日飛んできました。

東別院が燃えたのは午前4時頃のことです。堀が広かったのと広見で類焼は免れました。女学校(愛知産業大工業高校)の宿舎の松に焼夷弾が落ちましたが不発でした。 ここから北にある来迎寺の本堂に焼夷弾が落ちました。消防団が消火に行ったところ、発火せずに本堂の屋根に突き刺さっていましたので、 畳を積んで取り焼失を免れました。それからは、空襲警報があると家を守らず消防署前の広場へ皆集まるようになりました。とてもまぶしく、怖くて家に はおられません。どうしても人が固まってしまう被害が大きいはずです。恐怖に直面すると人間は一人でおられない。うちにも地下室の防空壕がありましたが、 一人も入りませんでしたから。

※1:東別院

真宗大谷派名古屋別院。元禄3年(1690年) 二代尾張藩主光友により、古渡城の跡地約1万坪に建立された。

※2:崇覚寺

長島山崇覚寺(ちょうとうさんそうかくじ)は真宗大谷派の寺院として勢州桑名郡長島の中川村にありましたが、寛永年間(1624~1643)巾下堀詰町に移りました。 正徳年間 (1711~1715).に再び、東本願寺掛所の西側の現在地(名古屋市中区橘2丁目6番15号)に移転し現在に至っています。崇覚寺は戦災を免れ、 東本願寺のゆかりの文書を所有しています。
寛文五年(1665)に春秋二回の芝居興行が許され、崇覚寺(現在の愛知産業大学工業高等学校)の東に芝居小屋(橘座)が建てられました。 七代藩主徳川宗春の代には東西の名優が競って来演し絢欄たる芸苑の花を咲かせたと語り継がれています。その後、宗春の失脚により中断しましたが、 幕末には再び活気を取り戻した。

※3:橘座跡(現在の愛知産業大工業高校)

寛文5年(1665)9月から、このあたりが町屋になり、春秋二回芝居興行が許された。享保16年(1731念)7代藩主宗春の代になって彼の積極策により 繁栄の一途をたどり、東西の名優が競って来演し絢欄たる芸苑の花を咲かせたが、元文4年(1739年)宗春の失脚で中断した。 文化・文政期(1804-30年)に再び活気を取り戻し、以後幕末の一時期を除き明治までつずいた。

※4:栄国寺

浄土宗の寺院。名古屋開府当時は、千本松原と呼ばれ尾張藩の刑場があった。キリシタン禁教令により多くのキリシタンがここで処刑された。
町の発展により二代尾張藩主光友は土器野(かわらけの-現清須市)へ刑場を移し、刑死者を弔うため清涼庵を建立、1685年栄国寺となった。
現在、境内には切支丹塚や切支丹博物館などがある。

※5:知恵の文殊さま(上知我麻神社)

戦前は、東海道と美濃路が分岐する所(熱田区伝馬1丁目)にあったが、現在は熱田神宮境内に鎮座する。知恵授け・商売繁盛の神。

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