戦前~戦後の体験を語る 近藤敏子さん

戦前・戦後の証言
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戦前~戦後の体験を語る 近藤敏子さん

戦前~戦後の体験を語る 近藤敏子さん

西区伏見町(現中区錦1丁目)で生まれ育った近藤敏子さんに女学校時代の思い出や町の変遷、戦争体験などを語っていただきました。(2009年11月収録)

西区伏見町(現中区錦1丁目)で生まれ育った近藤敏子さんが語る女学校時代の思い出や町の変遷、戦争体験(2009年11月収録)

※以下の文章は上のインタビュー動画から書き起こした内容です。

子どもの頃の思い出

西区伏見町4丁目1だったと思いますけど、そこで育ちまして第三幼稚園、それから明倫小学校というふうに過ごしました。浄願寺へ行って夏は良く遊んでました。 「火の玉がでた」とか何だとかいいながらね。
私の町内には、お茶の先生、ピアノの先生もみえましたし、八百屋さん、米屋さん、判屋さん、縫物なさる所、それから事務用品をやっておられる所、 いまから考えてみるとよくいろんな種類の職業があったなと 思います。夏に馬車が通ると、アスファルトが溶けて、轡(くつわ)の跡がつきました。 時には馬が暑さでばたんと倒れるとムシロかけて、そこの上から水をかけたりして・・・。
また、町内に八百屋さんがありまして、まあ三つ、四つの頃だと思うんですが、母に頼まれたものを、大きな声で「ダイコン、ニンジン、とかなんとか」 と言いながら行くうちに忘れてしまいます。近所のおばさん達が「あんたね、あれも頼まれたんでしょ?」なんていって、「あ!そうだった」と思い、 それを袋に入れてもらって引きずって帰った覚えもあります。昔の親は小さくても手伝わせましたから。
桜天神は今でもありますが、天神様のお祭りだということで行きますと、今は桜通(が出来て)削られましたけれど、 (当時は)奥行きがまだありましたから、いろんな屋台さんが並んで、「今日は天神様のお祭りだ」、「今日は泥江神社のお祭りだ」といって楽しみました。

  • 昭和8年頃の浄願寺周辺地図

    昭和8年頃の浄願寺周辺地図

  • 昭和8年頃の浄願寺周辺地図

    昭和8年頃の浄願寺周辺地図

  • 拡幅前の桜通の風景

    拡幅前の桜通の風景

桜通開通

(桜通ができて)ええ!広くなりました、何倍になったんでしょうか。呼び合えばつながるようなお向えさんだったのが、それこそ本当に広場が一つできたんですものね。 向えはなくなっちゃいましたし、何かほんとうに寂しいといいますのか、肌離れたような感じがしました。

  • 拡幅前の桜通の風景

    拡幅前の桜通の風景

  • 完成近い桜通

    完成近い桜通

  • 完成近い桜通

    完成近い桜通

女学校時代

名古屋市立第一高等女学校といって、長い(名前)ですけど、First Giels Schoolといいました。4キロまでは、(バスに)乗ってはいけないという規約があり、 伏見町からちょうどコンパスで計るとギリギリのところに家がありましたから、試験の時だけこそっと乗った以外は、30分から40分、(飯田街道を)歩きました。
映画館もひとりで行けませんでした。だれか保護者がないと映画館へ行ってはいかん、手袋はめてはいかん、そんな時代でしたでしょ。だから遊びに行ったといえば 鶴舞の図書館へ行ったくらいのところじゃないでしょうか。お友達と何処かへ遊びに行くということもないですから、お友達の家に遊びにいったくらいで、それ以外にあんまり遊んだことはありませんね。

幼子を抱いての戦災体験

(戦争がはじまると)徴用がありまししてね、「軍事工場へ」ということでした。私は軍事工場は嫌だからということで、幼稚園の先生をやったり、 三菱銀行へちょっとの間行きました。19歳で結婚しましたので、銀行の勤めも結婚するまでの、一年ほどでした。

伏見通の拡張があったため、道路疎開で本重町へ里が変わったものですから、本重町で初めての子をお産いたしました。その時分は空襲、空襲でしたから、 主人の出が稲沢でしたから疎開を薦められましたが、母が初めての子は自分の手元でということで、本重町でお産をいたしました。しかしお産を済ませて一月後に 空襲で焼けてしまいました。空襲警報が鳴って、まだ首が据わらない子をおぶって、一応逃れたのが袋町の遠山商会です。そのビルの地下へ入れていただきました。

ご近所の方もみえておりました。外が紅蓮(ぐれん)の炎つつまれて、今でないと出る時がないということで外に出て、道路疎開で広くなっていた久屋通に 向けて進みました。久屋通には防空壕がありましたので、防空壕の中に入ったんですけど、その時に一緒に逃げた里のお隣のお嫁さんが、私と一緒の防空壕に入られたんですが、前方の防空壕に居られたご主人が「こっちへ来いよ」と言われた。それでお嫁さんがそちらに向かわれました。そしたら焼夷弾の直撃を受けて・・・。
お嫁さん本当に真っ黒なんだけど、ご主人が「見てくれるな、見てくれるな」ってかばってみえました。そんなつらい思いをしました。

2月の大雪でしてね荷物をまとめて岐阜の父の実家へ送ろうとしていたんですが、馬車が動きません。仕方なく造った荷物を積み上げたまんま全部燃やしました。 あの時のことを思うと今思い出してもぞっとします。

戦後

昭和24年に名古屋に戻り、三人目の子供を名古屋で産みました。その当時の名古屋は、ぼっつりぼっつりと1丁内で7~8軒家があったぐらいです、 それも大きな家ではなくって。堀川から東の方は(家が)ぼつぼつ出来ましたけど、堀川から西の方に向けては割と復興は遅かったような気がするんですけどねぇ・・・。
広小路は、(今では銀行が多くなりましたが)前は屋台がずらっと並んでました。広小路と並ぶ繁華街の円頓寺は、昔からの小さなお店がたくさんありました。 お肉屋さん、魚屋さんいろんな店がそろってましたので、堀川を渡ってよく買い物に行きました。

伝馬町の変わりはずっと見てきました。そりやあ今から考えてもいい街だったと思います。動きがあって、それで静かで、わりと暗いイメージがなく。 でもまぁ焼け野原からよくこんなになったんだと思いますよ。本当に思います。こうやって見回すとビルばっかりで、どこの国へ行ったかしらんと思いますもんね・・・・。

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