三重の掘に囲まれた水の城「大垣城」の総掘内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。
東方に位置する東総門は、名古屋方面にあることから名古屋口門とも呼ばれ、京都方面に通じる西総門とともに明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。本町の北隅の札の辻には高札場がおかれ、南に下ると脇本陣が置かれていた。竹島町には本陣が建造され、現在は、大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡として大垣市の史跡に指定されている。
西総門を出て、舟町道標を通り南にくだると住吉灯台が見えてる。陸送に変わるまでは、桑名と大垣を結ぶ水運の拠点として繁栄したところである。
(案内板を参照)
戸田氏と大垣城
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられている。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となった。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続く。昭和11年(1936)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守閣を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなっている。
(大垣市HPより)