足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七城」の一つとも伝えられますが、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。鈴木氏は、戦国時代に西三河に勢力をもっており、5代続いた一族でした。
16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、永禄7年(1564)以降は、松平氏のもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげました。天正18年(1590)康重のとき、徳川家康の関東入国に従って、足助城を去りますが、まもなく 家康から離れ、浪人となりました。旧足助町は、町制施行100周年記念事業として、足助城を発掘調査の結果をもとに再現しました。戦国時代の山城の本格的な復元は全国でも初めての試みです。
堀切
足助城の中心施設と、南の山上に延びる施設を区切る役割を持った堀です。掘りの底を通路としても使っていました。
南の丸腰曲輪1
西南の谷間を監視する曲輪だったのでしょうか。小さな建物があったようですが、よくわかりません。
井戸
足助には、山の斜面からの湧き水を溜めるために作った井戸もありました。深い掘り抜き井戸のようにツルベを使うのではなく、大きな柄杓で汲みました。
西の丸腰曲輪1
この曲輪の先端部分は、掻き上げた土で固められています。小さな建物があったようですが、よくわかりません。
西の丸
足助の町を見下ろすところにあり、岡崎・名古屋への街道が眺められます。2棟以上の建物があったことがわかっています。
南の丸
この曲輪は、角ばった扇形に造られています。台所の役割をもつ曲輪で、復元した建物跡の他に、カマドに使われた石や炭などがみつかっています。
南物見台
この矢倉の上から、南方に鶏足城を望むことができます。鶏足城への連絡を兼ねた矢倉だったのでしょう。
本丸・本丸腰曲輪3
西の丸と南の丸を結ぶ通路にある小さな曲輪です。建物の礎石がみつかりましたが、足助城で礎石を使った建物跡はこの曲輪だけです。
北腰曲輪1
信州への街道を、正面に望むことができます。本丸寄りに、4.5mx6.8mの建物跡がみつかりましたが、建物の中を通って本丸へ行ったのでしょう。