-織田信長の小牧山城-
永禄6年(1563年)、織田信長は、小牧山に築城して、清須城から居城を移した。この当時の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、三河の家康と同盟を結んで東からの脅威を取り除き、尾張国内の統一をほぼ終え、たびたび美濃攻めを行っていた時期にあたる。
文献としては、信長公記首巻に信長の行動を物語るエピソードとして、清須から小牧山へ居城を移す旨の記述がされているが、築城の年などの記述はない。しかしながら、同時代に作成された信長の行動を示す書簡や日記などの古文書の分析から、永禄6年の小牧山城築城は通説となっている。
永禄10年に美濃の稲葉山城を攻略して、岐阜へ移るまでの4年間が信長の時代である。
(小牧市教育委員会文章抜粋)
映像でのインタビューの要約(小牧市教育委員会 小野友記子 学芸員)
小牧山城の大手道
この道は、大手道といってお城に上るためのメインルートですが、江戸時代の絵図にもこの道が描かれていますので、おそらくは織田信長の時代からお城の道として使われいた道を現在も大手道として使っていることだと思います。この道の両側には、大手道に沿うように土塁(侵入を防ぐために築かれた土の壁)があったと想像しています。また土塁の奥にはひな壇状に郭といわれる平らの 部分があったと考えられています。まっすぐな大手道を持っているのは、日本では小牧山城と滋賀県の安土城の二箇所でしか現在のところ確認されていません。通常の城では、複雑な折れ曲がりをして山頂の天守閣にいたることで、防御力を高める目的で設計がされていると思われますが、この小牧山城と安土城に関しては直線の大手道を持っており、そのどちらも織田信長の手によって造られた城であるという共通性を持っいることから、織田信長が城づくりに、我々が考えていないような新しい発想もって導線計画を行った可能性が考えられます。
小牧・長久手の合戦と小牧山
後ろに見えている土塁と掘は、小牧・長久手の合戦のときに徳川家康が小牧山城を本陣として使う際に、あらたに改造して築いた 横堀と土塁です。陣城として、もともとあった信長の小牧山城の防衛力をさらに高めるために横堀と土塁を中腹に廻すことによって本陣部分の防御力を高めようとした改造の痕跡です。この看板の後ろには、徳川家康が小牧・長久手の合戦のときに改造した堀と土塁が走っていますが、その堀と土塁、大手道を発掘調査したときに天正12年の小牧・長久手の合戦の際、使っていた道(ほぼ現在の道と同じ高さ)の下、約1m下からそれより前の大手道、しかもそれには石積がともなっていることが判りました。
織田信長の石垣
これは織田信長が小牧山城を築城したときに積んだ石垣の一部だと思われます。昭和時代に階段をつけるようになり、一部が見えるようになりました。山頂の郭を取り囲むように石垣がめぐっていたことが発掘調査でわかりつつあります。 この小牧山城で見られる石垣は、おそらく日本で最も古い段階の技術を用いて造られていると考えられます。99%は砂岩またはチャートと言われる石が使われています。この小牧山自体がもともと岩山で、小牧山のどこからか石を調達して積上げていると考えられますが、残りの1%は花崗岩です。ここから3kmほど離れた岩崎山という山がありますが、そこでしか採れませんので、そこからわざわざ持ってきて石垣として使われたことが判っています。その石垣には、矢穴といって楔(くさび) などで加工して割ったような痕跡はありませんので、自然の石を上手に使って組み上げている石垣であると言われています。
小牧山城関連の展示(小牧市歴史館1階)
小牧市歴史館の1階の部分は、小牧山に関連する展示を中心に行っています。平成22年の発掘調査で墨書石垣石材(石垣に墨で文字が書かれているもの)が発見されました。日本で確認されている墨書石垣石材で、現在のところ日本最古のものであるので是非ごらんください。発掘調査の前は、小牧山城は小牧・長久手の合戦の陣城として良く知られていて、織田信長の城としては、砦や出城程度だったと、地元の人も城郭の専門家など多くの方がそのように考えていました。ところが発掘調査により、山頂部分には山頂を取り囲むように大規模な石垣が組まれていることが判ったことで、日本の城郭史のなかでも非常に古い段階、信長の城づくり、そして日本のお城づくりの起点になる可能性があるという発見が相次ぎまして、いま非常に注目を集めているところです。城下町は、小牧山の南、南北1.3km,東西1kmの 範囲に作られたと考えています。織田信長は清洲から、城を移転させるのと同時に清洲の町場も小牧に移転させたとき に築かれた町場だと考えられています。
江戸時代の小牧山
江戸時代になると小牧山は、尾張徳川家の所領になりました。小牧・長久手の合戦で神君家康公、御戦勝、御開運の地ということで、徳川家が天下を統一する基盤となった縁の地ということで、一種、徳川家にとっての聖地として扱われました。このこともあって尾張徳川家によって、「お止め山」として大切に保護されました。「お止め山」とは、廻りを柵で囲って山番をいて、年の数回だけ下枝の剪定など最低限の管理するために村人を入山させる形で、基本的には山のなかで一切の工作部を禁止することで大切に保護されてきました。江戸時代の他のお城に比べると戦国時代の城跡がとても良好に残っています。
小牧山城と織田信長
小牧・長久手の合戦-秀吉軍、岡崎への奇襲攻撃へ動く
これで両軍の戦闘準備が整い、今にも天下分け目の戦いが開始されるばかりとなった。しかし、二度の小競り合いがあっただけで、互いに相手の出方をうかがい、両軍に大きな動きは見られなかった。
4月にはいって、秀吉軍に動きがあった。それは、家康の本拠地岡崎を奇襲しようという恒興の進言を、 はじめ取り入れなかった秀吉が聞き入れ、作戦が始まった。4月6日夜半、2万の大軍を四隊に分け、第一隊恒興、第二隊長可、第三隊堀秀政、第四隊三好秀次を隊長として、楽田から物狂峠を越え、山裾にそって大草、関田を経て上条に野営し、庄内川を渡って長久手方面へ向かった。
(小牧市教育委員会文章抜粋)
小牧付近の城砦(秀吉軍)
(以下小牧市教育委員会文章抜粋)
内久保砦
小牧・長久手の合戦時に、秀吉軍の砦として築かれたもので、東西九間、南北十三間の規模であったとされる。蜂屋出羽守頼隆・金森長近等を将とした、三千余が陣を敷いた。
現在、内久保山西南麓にある三明神社周辺が砦の位置と考えられるが、正確な位置ははっきりしない。
岩崎山砦
岩崎山山頂に設けられた砦であるが、規模は不明。秀吉が小牧山に対して砦を構え、稲葉一鉄・貞通父子等を将として兵四千で守らせた。岩崎山の標高は54.9メートルであり、現在でも、山頂付近からは小牧山周辺を一望にすることができる。
外久保砦
久保山の西端に設けられた砦。比高34メートルの丘の上に築かれた東西二十三間、南北十六間の砦。守将・兵力共に不明。長久手の合戦後は、秀吉自らが本陣の楽田城からこの砦に出て全軍を指揮したと伝えられ、太閤山と呼ばれている。現在の熊野神社社地一帯が砦の位置と考えられる。社殿前には砦跡を紹介する案内板、北西へ伸びる道の先には砦跡を示す石碑が建てられている。
小松寺山砦
小松寺山砦には二つの砦があり、西砦は小松寺のあたり、東砦は旧小松寺山一帯にあったとされ、その規模は、西砦は東西八間、南北十間、東砦は十間四方であったと伝えられる。守将は丹羽長秀(長秀の子長重とする説もある)で、八千余兵で陣を敷いた。
小松寺山は、かつては小牧山と肩を並べる高さがあったが、昭和四十年代の開発で整地され、現在は小松寺団地となっている。小松寺山砦を示す案内板と石柱は、小松寺本堂の東にある八所社・熊野社合殿のところに建てられている。
田中砦
秀吉方の砦跡で、堀長政、蒲生氏郷、加藤光泰等の将が守備したとされるが、兵力は不明。砦の規模は東西十六間、南北三十間という。秀吉は岩崎山の南麓茶屋前より田中、二重堀の砦に至る、二十余町にわたる土塁をわずか一日で築いたとされ、これに対し、家康も小牧山北麓より八幡塚に至る土塁を築いたといわれている。
砦の位置を示すものとして、三ツ山会館(三ツ山古墳)前に石碑が建てられている。
二重堀砦
秀吉軍が小牧山に対して二重堀の地に砦を設けた。秀吉軍の最前線として、特に重視された。規模は、東西五十五間、南北四十間、土塁の高さは五尺という。この砦は、日根野弘就兄弟等で守らせたが、天正十二年(1584)四月の家康軍の逆襲により、多数の死傷者がでた。
現在は、個人宅西南隅に接する道路沿いのところに、「日根野備中守弘就砦跡」と刻まれた碑文が置かれている。これは同宅の裏にある竹藪の中にあったものを移したものである。砦の位置は耕地整理のため、当時の跡をとどめないが、二重堀の集落の北端あたりにあったとされる。
小牧付近の城砦跡(徳川軍)
(以下小牧市教育委員会文章抜粋)
蟹清水砦
蟹清水砦は、織田信長の小牧越しの際には、信長の武将丹羽長秀の居城であったと伝えられる。小牧・長久手の合戦時には信雄・家康連合軍がこの砦を修復し、交番で守備した。
砦の規模は東西四十六間、南北六十一間と伝えられる。砦跡は小牧御殿跡の北にあり、昭和二十年代までは堀跡、土塁跡なども残っていたが、その後の開発により駐車場や住宅へと変化し、現在は石柱が建てられているのみである。
北外山砦
小牧・長久手の合戦時に、北外山の古城を修復して造られた連砦。東西二十七間、南北二十間、土居の高さ一間余の規模を有したとされる。守将は蟹清水の砦と同将の交番であった。
現在では宅地化が進み、「城島」という小字が砦の名残を留めているのみである。この石碑は、約50m北側の民家敷地内から移設したものである。
宇田津砦
信雄・家康連合軍が築いた連砦の一つ。規模は、東西三十四間、南北三十八間で、総構は二町四方のかなり大きな平城であったとされる。秀吉方の二重堀砦に近いため軍道を必要とし、家康は、北外山・宇田津・田楽を結ぶ新道を敷設した。
現在は、東海ゴム工場敷地内であるため見学はできないが、「哥津の森」と呼ばれる小さな森があるのみであり、往時の姿を窺い知ることはできない。
田楽砦
東軍の連砦の東端に位置する。池田恒興の犬山城攻略により、城を落ち延びた犬山城の残党が田楽の伊多波刀神社に集まっていたものを、家康が自ら出向いて長江平左衛門の屋敷に集め、砦を造り守らせたのが田楽砦の始まりとされている。
昭和三十年代までは土塁の一部がL字型に残っていたが、その後の開発により消滅した。
地図
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